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DOG DAYS 12話感想 世界との別れ、そして約束を

※ちょこちょこ追記を下の方でしてます

もはや言葉で語れることがどれだけあるだろうか。
正直まとまっていない感情のまま13話を迎えたいという気持ちすらある。
フロニャルドでの物語は全話までで収束した感があり、ここからの2話はただフラットに受け止めるだけでいい。
行きて帰りし物語の、その最後を。

とはいえ書きたい欲求も湧いてくるのだから、いろいろ模索しつつ、つらつらと。
散漫な感想になってしまったが、そんなないまぜな気持ちがあらわれたのかもしれない。

■なめた構図と秘密の覗き見

今回最も目についたのは、なめた構図ではないだろうか。
なめた構図とは、被写体よりも手前にある物体を同じ画面に収めた構図のことである。
この構図の演出意図は様々であろうが、今回この構図が使われていたのは、まず学院、そしてシンクとリコとの会話のシーンであることに注目したい。
これらは全て「秘密の会話」のシーンなのだ。
なめた構図を用いることによって、あたかも秘密の会話を物陰から覗き見ているかのような印象が生じているのだ。
このピンポイントでの演出によって、「秘密」が「秘密」としての強度を作中で保たれている。

■手を降ることは

人物の動作で多かったのは、手を降ることだろう。
最初のシンクたちの凱旋、Bパートでのシンクの訪問、これらのシーンでシンクは手を振り、そして振られている。
この動作は人物としての意図は歓迎・訪問の挨拶であるが、シンクとの別れがフォーカスされた今回においては、まるで別れの挨拶のように機能しているのだ。
手を振ることが否応なく別れを予感させる。
お礼参りのように見えるのシンクの訪問が、刻一刻と迫る別れに向けて感情を高めていくのだ。

■取り落とすこと

別れを予感させるのはそれだけではない。
今回、物を取り落とす描写が3回も出てきたのだ。
以前から言っているように、この作品はキャッチすることが重大な意味を持つ。
この描写が繰り返されることで、この作品の転回が示され、不安を煽り、どうしようもなく別れの到来を告げる。
実際、何かを落としてしまう描写がこれまでにどれだけあっただろうか。
(3話で風呂にシンクが落ちてしまったシーンをそのように捉えることができるが、その場合直後にミルヒをさらわれてしまうという事態になったのは見逃してはならない)
(また、10話でシンクが落とした妖刀は、通常以上の意味で「大人」であるブリオッシュとユキカゼが処理をした。これは担当すべき人間が事案を対処したと言える)
まず第一に、フリスビーをキャッチできないミルヒ。
第二に、リコが必死になる横で落ちる積み上げられた本。
そして第三に、ベールが躓いてひっくり返したジュースである。
このジュースに関しては、シンクとガウルの決着を文字通り「水に流す」ことになったのも言及しておく必要があるだろう。
取り落とされたのは、宝剣であり、ミルヒとのやりとりであり、知識・技術であり、リコの必死な思いであり、戦いの決着である。
これらを落としたままでいいのだろうか。
否、勇者であるならば、この作品で今まで示されてきたシンクであるならば、これらを落としたままで居るはずがない。
これら描写は別れを告げるものであるが、逆説的にシンクがなんとかすることを期待させてもいる。
それだけの信頼を寄せるに価することを、シンクはこれまでやってきたのだから。

■やはり、花

また、作品を通した描写として、またしても花があらわれた。
ライブでまたしても衣装が変わってもやはり花があしらわれたミルヒもそうである。
そして何より、シンクが子どもから貰った花の首飾り。
それと同時に語られる、シンクはフロニャルドから何も持ち帰れないということ。
シンクは花の首飾りを持ち帰れない。
花とはすなわち、フロニャルドそのものである。
これに関しては以前の記事を参照してもらいたいが、フロニャルドが花畑であるという解釈は概ね正しいと思われるし、13話においても花には注目するべきだろう。

■残す物

シンクは何も持ち帰れないとしても、フロニャルドに残していくことはできる。
今回出てきた懐中時計は素直に受け取ればその伏線であるし、物体以上のものをシンクはすでに残していると言えるだろう。
そういう意味では子狐が気になる存在である。
時計という部分に注目すれば、シンクが取り落としてしまうのは日々の記憶、経験であり、時計はその象徴として捉えられるだろう。

■この日々を

シンクがフロニャルドで過ごした16日間の経験。
13歳の少年の、少しだけ変わった日々。
これが、行きて帰りし物語としてのDOG DAYSが描いてきたこと。
その出会いと別れ。
それがこの物語の終着点。
こうした人々との絆の大切さが描かれてきたからこそ、別れが悲しいのだ。
誰かがいてくれること。
その暖かさ。
ミルヒとレオの絆であり、二人の成長を見守る大人たちという構図。
今回の、Aパートの終わりからの流れがとても美しかった。
シンクを巡る人々が描写され、シンクの俯瞰に至る。
シンクが人々を訪れ、そしてまた夜に眠られずにいるシンクが映される。
シンクを中心としてコミュニティ・日常がしっかりと描かれている。
そのコミュニティ。
描かれるのは個人との別れではなく、コミュニティとの別れ。
だから、この作品は単に個人ではなく世界を描いてきた。
モブの顔の書き込みの差がそのままシンクとその人物たちとの関係性として現れているのも、コミュニティの描き方としてとても割り切っているし、一つの真理であるようにも思える。
コミュニティを描いた作品だということは、この作品を語る上で重要なことだろう。
果たしてどのようにコミュニティとの別れが描かれるのだろうか。

■そして約束を

次回のサブタイトル「約束」。
思い返せば、シンクはミルヒと約束を重ねてきたのだということがわかる。
1話の勇者として戦うこと。
3話では、話をすることを約束し、7話では朝の散歩を、また、再び召喚することをミルヒが約束した。
そして今回、ミルヒを忘れないという約束を交わす。
再召喚はミルヒが約束し、記憶の保持はシンクが約束した。
この約束をどうやって果たすのか。
今回の最後にシンクはすべての人にむけて、再び勇者として訪れることを約束した。
それは、その後のカットである互いを見るシンクとミルヒに象徴されるように、二人の交わした約束に収束される。
他に交わした約束といえば、3話でのリコがした元の世界に戻すという約束と、11話でのロランの「戦う理由を忘れないで欲しい」というものだが、この2つも召喚と記憶に関係するものであり、やはりシンクとミルヒの約束に収束されているのだ。

勇者と姫様の約束がどうか果たされんことを。
そう願いながら、次回を待つことにしよう。


※コメントでのやりとりで気が付きましたが、この展開とEDの歌詞とのシンクロがすごいです。2番以降もそうですし、Fullでもとてもいい曲なので是非そういう気持ちで聞いてみて欲しいですね


※これまでの感想でまだまだ触れていない点はありますが、何より「星」の解釈と閣下に関することは次回には触れられるようにしたいですね。
単純に難しいんですが……。
特に星は取っ掛かりがなかなか。
星詠みは、シンクが帰還した後も行えることとかもね。
あとね、あとね、エクレがとても可愛いのに触れられなかったから、何とかしたいですね!
ガウルとシンク同じベッドなのかよ、うおお! とかも。
先に風呂入ってこいよ→同じベッド……っておい!
大事ですよこれは。
いいですか、5話においてガウルはシンクに「名前を覚えろよ」と言っているのです。
これは今回のミルヒとの約束に先んじているわけです。
ここに、ガウル真ヒロイン説の根拠が生じたと言えましょう!

テーマ : DOG DAYS
ジャンル : アニメ・コミック

DOG DAYS 11話 成長を示す、花咲くコンサートのリフレイン そして作画の話

実に、実に素晴らしい。
まさしくこれまでのミルヒとレオの物語の収束点である。
そしてまた、人によってアニメの、世界の見え方は違うのだと深く実感した回でもあった。
いや、まあ作画もそうだし展開に関する感想とか読んでてね。
果たして、あなたの見てきたDOG DAYSは、僕の見てきたものと同じなのだろうか。
なぜ僕がこれほどまでこの作品を絶賛するのか。
これから、僕がこの作品に対しどのような立ち位置にあり、どのような眼鏡をかけているのか、示していこうと思う。
具体的には本作を視聴する上での、追っているラインを示す。
それによって、DOG DAYSへの一つの新しい展望を切り開ければ幸いである。
その前に、11話の予習記事を読んでいただければ話がわかりやすいかもしれない。
予習記事は運命が変わった理由とかも書いたのできっとおそらく要チェック!
今回は力入れていきますよ!

■5話のリフレインと、ミルヒの成長

以前述べたとおり、ここ数話は4・5話との対比となっている。
つまり誘拐→勇者超特急→コンサートという流れであり、そうである以上、5話との違いが重要になってくる。
まず、4・5話の主題となっていたものは何であったか。
それは、ミルヒのレオへの思いであろう。
しかし、ミルヒはレオに自分の思いをぶつけることができなかった。
そして、その流れで、シンクに「自分はまだまだ領主としてひよっこだ」と言うのである。
もちろんミルヒの為政者としての成長も、前回を見れば明らかなようにしっかりと描かれている。
だが、根本的なミルヒの心情は、レオの態度に直結している。
レオが自分にあのような態度をとっているのは、何が理由にせよ、自分がひよっこで信頼されていないからだ、と。
そのため、ミルヒがレオに自分の思いをぶつけ、その信頼を勝ち取ることがDOG DAYSの主題の一つであることは5話の時点で明らかであったし、そこを追って視聴していくべきではないか。
だからこそ、ミルヒが戦場に出て、レオの前に立ち、思いをぶつけるシーンが感動的なのである。
5話とは違い、今回ミルヒはレオに伝えることができた。
対等になれたのである。

「レオ様に『守っていただいてばかり』だった小さなミルヒも、今ではそれなりに『大人』になっています」

結果、5話とは違い、レオもミルヒのコンサートを聞くことが出来るという展開に繋がっている。
これこそまさしく、ミルヒとレオのの物語の着地点として相応しいだろう。

ただ。
今回新たにコンサートを聞けないキャラがいた。
リコッタである。
彼女を含め、今度こそ全員が聞けるミルヒの歌。
そこが、この作品全体の着地点となるのだろう。
このように、ミルヒのコンサートは作品を象徴するシーンであり、常にそれまでの流れを読み取りながら見ることで、見え方が変わってくるのである。

■大人と子どもの境界線

さて、5話についてもう少し詳しく見る必要がある。
それは、大人と子どもの境界線である。
そもそもこの境界線がレオによって作中に導入されたのは4・5話である。
彼女に言わせれば、シンク・ガウルは子どもであり、自分は大人だ。
そしてレオ本人がどう思っているかはともかく、ミルヒは自分がひよっこ=子どもであることがレオの態度の原因であるとして悩む。
実際、レオにとってミルヒは庇護すべき対象であって、その意味では大人扱いしていないのだろう。
レオは、ミルヒが星読みの件を知り思い悩むことすら許容できないのだろう。
それが、全てを自分が引き受けるという態度なのだ。
しかし、そもそもレオは大人であると言えるのだろうか?
公式サイトのキャラ紹介で、年齢表記のあるキャラと無いキャラがいて、レオは表記のあるキャラで最年長の16歳である。
この区分が大人と子どもの境界線だとすれば、レオは子どもだということになる。
そのようなことを考え視聴してきたが、今回、一つの回答がロランの口から語られた。

「レオ様も領主として立派にやっておられるとはいえ、まだお若い。」

だから、大人が支え、見守っていこうと。
それは、ミルヒがレオに思いを伝えたときにも言った言葉だ。

「信頼する臣下や、友人もいます」

これこそが、一人で全てを背負い込もうとしてきたレオへの回答である。
「世界はキミだけがいればいい」「キミのいない世界なんて」
しかし、子どもが大人になるのは周りの支えがあってのものである。
そうやって、少しずつ大人になっていく。
そうした存在としてのオンミツ部隊。
ユキカゼがとてつもなく年長者であることも示された。

これは大人と子どもの間の、中途半端な時期に、陥りがちなセカイ系的想像力に対する、一つの回答とも解釈できる。
社会と人間関係を描けば、当然そうなるし、キャラクターの多さもそういった意図があるのならば納得出来るはずだ。
深い人間関係だけを描くのが、常に是であるとは思わない。
しかし、これらは今回の主題ではないので置いておく。
まどマギ辺りと比較すると面白いかもよ?(放言)

とにかく、DOG DAYSは、大人になっていく子どもと、それを支えている周囲というテーマがあり、これも視聴の上での軸となるだろう。

年齢表記のないジェノワーズ?
あれは子どもというよりバカ……。

■シンクの帰還

このように、周りに人がいてくれることの大事さを描いている本作であるが、忘れてはならないことがある。
シンクの帰還である。
シンクは帰ることを望んでおり、また、再び勇者として召喚することをミルヒが約束している。
しかし、それが不可能であるとしたら?
次回のサブタイトルである4つの条件がそのようなもの――再召喚の不可能、あるいはフロニャルドでの記憶の忘却など――であった場合だ。

「居なくなったりいたしませんから」

ミルヒがレオに言った言葉。
しかし、シンクが居なくなるのだとしたら?
これから描かれるのは、どのような形であれ、別れの形だろう。
人と人のふれあいを描いてきた本作がどのような別れを描くのか。
注目である。

■夜空に花が舞うように

11話の予習記事で「花」とは何かについて書いたが、今回。
花は、ミルヒのコンサートに収束した。
ミルヒの衣装も花をモチーフにしている。
5話も含め、本作はミルヒに、そしてミルヒのコンサートに収束していく。
皆が見る、花としてのアイドル・ミルヒ。
そのコンサートは本作の象徴であり、収束点だ。
5話のように、皆が見つめ、レオは憂い、エクレはシンクを気にし、シンクは疲れ果てながら「いい歌だなあ」と充実感を得る。
今回においても、今度はレオが聞き、エクレがデレデレ、そして土地神のシーンのように。
もう一度言うが、まだあるであろうミルヒの歌のシーンは、本作の着地点となるだろう。

また、コンサートでミルヒが花を掴んで高く投げたのも注目したい。
同様に、7話のフリスビーのシーンで、ミルヒはキャッチしたフリスビーをとても高く投げた。
そして今回、土地神が空へと駆け抜けて行った。
この土地神は、10話でミルヒがキャッチした存在である。
だとすれば、予習記事で書いたように、落ちてきたシンクをキャッチしたミルヒは、再びシンクを空高く舞い上げねばならない。
それは、まさしくシンクの帰還であり、その展開は必然なのだろう。
ミルヒが手を高くあげる時に花火が打ち上がる描写とも関連付けられるかもしれない。
シンクが飛び降りてキャッチするように、ミルヒはキャッチして高く投げ返す存在なのだ。

ユキカゼによって妖刀が徒花と表現されていたのも、本作を花を使って語るのには重要。
それについては、是非予習記事を。

■作画語り

今回の見所はなんといってもコンサートのシーンである。
語る言葉など無いと思わせるほど素晴らしい。
が、出来る限り具体的に語りたいと思う。

まずわかりやすいところでは、手が上手い、それはもうすごく。
凄まじい立体感、空間把握と、綺麗な指の動き。
一度、手だけに注目して見てほしいくらいだ。

そして、これが最も特筆しべきことだが、タイミングの気持よさ!
ミルヒもそうだが、リズムに合わせて揺れるキャラのタイミングがこれでもかという程に気持ちいい。
ただ揺れるだけでなく、肉体を伴って、キャラ自身がリズムを取ってるのが伝わってくる、極上の作画だ。
特に、ブリオッシュの手拍子は、今まで見た中でも最高の手拍子なのではないかとすら思える。
見ているだけで、こちらの体まで動いしまうような、そんな芝居付けに感服するほかない。
呼吸すらできない!

一番目を惹かれるのは、衣替えをした後に花を掴んで投げるところだ。
見ているだけで仰け反ってしまうほど上手い。
上手すぎてこれに関しては本当に語る言葉がない。
泣きそう。

表情!
エクレがエロい!
もう、セリフがなくても感情が伝わってくる。
シンクが、ごめん、殴られる! と思ったのが手に取るように伝わるし、土地神登場シーンでミルヒが驚きながらも歌をやめないのもしっかりとわかる。
レオも、非常に難しい角度の顔を、これが一番彼女の心情を表せるのだと、納得するしか無いレベルで描かれている。
なにより、舞台を眺める子狐の表情!
どのような気持ちなのか、何を思うのか。
想像力が膨らむ、恐ろしいほど秀逸なカットだ。

子狐といえば、子狐自身も素晴らしい。
見ただけで子狐の骨格がわかるような、骨肉があるのが伝わってくる作画!
それは人に関しても同じで、例えばミルヒの肩甲骨! 
骨があり、肉がある。
だから体重移動が生まれ、予備動作があり、意識的ではないゆらぎが生じる。
この作画には肉体があり、ゆえに無意識がある!
無意識が描かれる作画こそが僕にとって最上である。
人間は自分が思った動きだけをしているわけではない。
常に無意識で身体をコントロールし、それが描かれるためにキャラクターに実在感が生じる。

格好悪い表情もまた、素晴らしい!
実在感を高めるなら、格好悪い表情もまた必然。
それによって、キャラクターの感情が『生』のものであるように感じられる。
格好良い表情だけを描くのが正解なのか。
そんなことはないだろう。
そもそも、こんな難しい角度の表情をぽんぽん描かれたら、それだけで実在感うなぎのぼりである。

キャラクターの描き込みではなく、密度ではなく、その芝居の発想とタイミング。
それこそが実在感を生むのである。
それこそが心に響くのである。
この瞬間、まさしく彼らは存在するのだ!
これこそが作画におけるリアリティでありオリジナリティ。
新しいものを見せてくれたことに感謝である。


■なぜここで実在感か

では、なぜこのような方向性で演出されたのか。
吉成鋼だから、というのもひとつの回答だが、そもそも氏に仕事を振ればどのようなものが出来るのかはわかりきっているだろう。
つまり、そこには演出上の意図がある。
では、それは何か。

以前触れたように、この作品は一種のメタ構造を持っている。
それは、作品で描かれることは全てテレビの画面を通したエンターテイメントである、という構造だ。
そして、それが今回取り払われているのだとすれば、どうだろうか。
今回は5話と違い、コンサート中に場面が飛ぶことはほぼ無い。(最後のリコだけであり、そこは通常の作画である。)
5話においてはコンサートは生だけではなく、画面に映されたものを見ている描写が何度もあったが、今回はそれがないのである。
全員が全員、コンサートを生で見ているのだ。
であれば、視聴者の席も画面の前ではなく、コンサート会場にあるのだ。
画面を通さずに見たキャラクターたちに生じる実在感。
そこに生じる、体感的な歌の気持よさ。
そういったものが表現された、近年稀に見るシーンであったと評価できる。

この流れについては、11話でモブが顔つきで表現されていたことにも注意しよう。
フィルターが取り去られ、実在感が増していくのが1話を通して丁寧に準備されているのだ。
それは、いつものようにカメラが主張されず、リコとユキカゼの覗き見ていたように、また、ロランとアメリタが隠れ見ていたように、視聴者が現地に視点を導入されていく段取りでもあった。

■作画崩壊という言葉の定義

さてさて、今回のコンサートの作画。
賛否両論であるが、気になることがある。
正確には以前から思っていたことでもあるが。
それは、作画崩壊という言葉の定義だ。
この言葉は一体何を意味しているのだろうか。

そもそも、見る限りこの言葉の定義につて共通認識は無いように思える。
そんな言葉を気軽に使うこと自体百害あって一利なしだと思うが。
とはいえ、この言葉を使っている以上、おそらく何かを表現しようとしているのだろう。
では、それは何か。
はっきり言って人によって違っているのでわからないのだが、気になるのは客観的に作画崩壊のラインがあるという想定があるのではないかということ。
しかし、そんな想定可能だろうか。

そもそもどのような作画が作画崩壊と表現されるのか?
キャラ表と違う作画か?
しかし、キャラ表が示されていない作品に対しても、この言葉は使われている。
さらに、キャラと違う表情、角度で描かれたものは作画崩壊となってしまう。(今回はそのように使われている節もあるが。リアリティを考えれば、格好悪い表情があるのは必然である)
さらに言えば、キャラクターデザインが描いた絵が作画崩壊と言われることがあるのだ。
では、これまでの話数に出てきた絵との比較か?
だが、1話から作画崩壊と呼ばれる作品がある。
また、初めて出るデフォルメ絵に対して作画崩壊と言うだろうか。
言わないのであれば、情報量を増やした、言わば逆デフォルメと呼ばれるものを作画崩壊というのもおかしいだろう。(この点に関してみなみけのそれを無邪気に作画崩壊と言っていた人もいたと思うが)
絵の巧拙のことか?
であれば、素人判断はできない領域の問題だ。
そもそも今回に対する反応を見れば、巧拙について判断できている人間は作画崩壊などと言わないだろうことは明らかだ。

このように作画崩壊には多様な定義があり、最終的には絵の巧拙か、あるいは好みの問題に還元されるのではないか。
そして、絵の巧拙についてなにか言うにはそれなりの知識が要求される。
アニメ制作の工程に関する知識すらまともにない人間が、果たして使っていい概念なのか。
必要とされるのは単純に絵の知識ではない。
アニメ制作はあらゆる分野が繋がっており、単純に絵だけを取り出すことは困難だからだ。

であれば、好き嫌いの意味で使われることになるが、果たしてそれに作画崩壊という言葉を用いるのは正しいのだろうか。
なぜなら、ここで言われていることは主観の中の何かと実際の画面との不一致のことであり、それを作画崩壊と言うのは実情と字面が違いすぎるだろう。
もっと適切な、主観的な言葉を使うべきではないか。

このように多義的に使われている言葉をあたかも共通認識があるかのように用いて語り合っても、実際には何も語り合えていないのと同じである。
そのような空っぽの、しかし負のイメージの強い言説が蓄積していくことがアニメのためになるとは到底思えないし、使っている人間のためになるとも思えない。
まあ、あくまでアニメはコミュニケーションのための踏み台で、中身がなくても何か言い合うだけを目的とするのなら話は別だが。

だからこそ、アニメを語るときに作画崩壊という無責任な言葉を用いるのはやめてほしいというのが僕の思いである。
世には作画崩壊というレッテルを貼られた作品が多くあるが、どれも作品によって実情が異なっている。
それをひとつの言葉で一括りにするのが正しいとはどうしても思えないのだ。

今回の作画に不平を言うのをやめろと言っているわけではない。
それは好みの領域であり、あるいは明確に問題のある映像であったことを示す根拠があればいいのだから。
ただ、そのことを作画崩壊という言葉で覆い隠し、実際に自分が何を感じたのか言語化せずに、埋もれさせてしまうのは非常に勿体無いと思うのだ。
僕の願いはアニメをめぐる言説の豊穣である。
それを空っぽに還元してしまう言葉には、反感を抱いてしまう。


本編と直接的には関係の無い余談が長々と続いてしまった。
兎にも角にも、残すところはあと2話。
一体どのようにこの物語を締めくくってくれるのか、期待である。
個人的にはエクレに注目せざるを得ない。
ちょう可愛い!

テーマ : DOG DAYS
ジャンル : アニメ・コミック

DOG DAYS 11話の前に――予習・復習と運命のエレベーターとか

書こう書こうと思ってもう前日。
はい、DOG DAYSの予習復習記事でございます。
これまでの話数で気になった演出とか、ついでに運命とエレベーターの話とか。
そんな感じで軽く一つ。

■花、そして連想ゲーム

11話のサブタイトル、『夜空に花が舞うように』
どんな内容か読み取るのは困難なタイトルであるが、ちょっと気になる点が一つ。
花、である。
実はDOG DAYS、花に関する描写も特徴的だったりするのだ。
それでは具体的に見ていこう。
何より目に焼き付いてるのは、OPの花畑と、EDの最初の、剣が地面に刺さった時に舞い散る花なのは間違いないだろう。
ご存知の通りOPの花畑は7話で登場したミルヒの象徴的な場所であり、印象に残るように扱われている。
10話を見れば明らかなように、シンクとミルヒがフリスビーを投げ合ったシーンはこの作品に取ってとても重要である。
ミルヒ自体も、ピンクの花をあしらったかのようなデザインだ。
特に、ミルヒの甲冑姿はピンク、オレンジ、白が基調であり、この花畑を連想させる。
そして何より、ミルヒオーレとはイタリア語mille fioreであり、百花蜜を意味する。
また、直訳すると千の花という意味になる。
これらのことから、花はミルヒの象徴であると言うのは妥当であろう。
次に、EDの花びらは、1話でシンクが召喚された時に包まれていた花を表していると見ていいだろう。
つまり、シンクは召喚時に花=ミルヒにキャッチされたと読み取ることが可能である。
さらなる連想として、花から現れるシンク――これを、まるで虫のようだと考えることはおかしいだろうか。
無論、そう考えるだけの根拠はある。
7話での花畑のシーンで、最初に1カット、蜂が花にとまろうとするカットがあるのだ。
ミルヒが花であるならば、シンクはそこに飛び降りてくる蜂である。
この考えを、名前の由来である蜜が補強してくれているように思う。

さて、DOG DAYSで花といえば、もう一つ象徴的なものがある。
花火である。
事あるごとに打ち上げられる花火。
フロニャルドの空は、かように花に彩られている。
さらには、戦場で煌く紋章術も、あたかも花火のようではないか。
このように見ると、フロニャルド自体もまた、光り輝く花畑なのではないかという思いを抱く。
安直なことを言えば、花畑とは楽園の象徴であろう。
花畑に舞い降りた蜂――この物語をそう捉えることも出来るかもしれない。

さてさて。
光を放つ紋章術から、もう一つ連想できるものがありはしないか。
そう、ヒカリウム(サイリウム)である。
ヒカリウムが登場した5話において、紋章術によって武器の先を光らせる演出が多かったことにお気づきだろうか。
他の話数と見比べても、5話の、この演出は明らかに意図的である。
だからこそ、最後のミルヒのコンサートにすべてが収束する、「ミルヒのために皆がヒカリウムを振る」美しい構成なのであるが、ここではこれは余談である。
今の論点は、こうである。
ミルヒに向かって振られる無数のヒカリウム。
これが、花畑に見えやしないだろうか、ということだ。

このように、本作では花に類する演出が豊富である。
次回のサブタイトルに花が付くだけに、そういったところに注目して視聴するのも面白いかもしれない。


と、このようにフロニャルド=花畑論を展開してきたが。
忘れてはいけないのが――実は今思い出したのだが、地球でも、1話では1カット目から梅が大きく、また何度も画面に映り、そして何より、ベッキーと花見の約束をしているのだ。
花に始まり花に終わる。
梅から桜までの短い時間の、不思議な花畑での物語。
この作品は、そんな、徹頭徹尾花の物語なのかもしれない



■運命とエスカレーター

さて、話変わって10話の話。
10話で星読みの運命は回避されたかのようにみえる。(とはいえ、公式のあらすじは予断を許さない書き方だが)
もしそうだとすれば、一体どこで運命は変わったのか。
これを考えるに当たって、思い返してほしいことがある。
悲劇の運命を占ったのは、果たして星詠みだけだっただろうか?
そう、7話でベッキーが携帯占いでシンクを占っていたのだ。

星読みの姫というサブタイトルに恥じぬヒロイン的行動。
ベッキーとてお姫様なのだ!(シンクの)

ええと。
で、このシーンで注目すべきは、タイミングよく到着したエレベーターであろう。
エレベーターである。
DOG DAYSにおいて、エレベーターが出てきたのはこのシーンを含めて2回だけ。
もう一つは、9話での、ミルヒがレオの悪夢をを実現してしまうシーンである。
つまり、9話のエレベーターの描写は、当然7話におけるベッキーの占いの場面のリフレインである。
であれば、シンクが運命を回避できたのだとすれば、それはエレベーターに乗らず、壁登りを行ったからであろう。
6話の回想で、ミルヒが見守った、壁をよじ登るシンク。
このときは勇者になれなかったシンクだったが、今回は間に合ったのだ。
彼女の勇者として、選んでくれた人の期待に答えたシンク。
このように、9・10話はこれまでの描写が収束した、非常に完成度の高い回であった。
素晴らしい。

テーマ : DOG DAYS
ジャンル : アニメ・コミック

DOG DAYS 10話及びこれまでの総括的な感想

さてさて、ブログなるものを始めてみたので、じゃあDOG DAYSに関するこれまでのツイートのまとめのような記事を10話を中心に書いてみようかな、と。
思いついたら追記するかも。
そんな試みでいくつか気になる部分ををば。

■10話の構成:ミルヒ誘拐の対比としての成長

10話の構造は、概ね3・4・5話のミルヒ奪還戦と対となっている。
具体例としては、ミルヒ誘拐→奪還しようとするシンクとエクレ→勇者超特急という構成である。
この二つの戦いを比べたとき、もちろんミルヒのところまで辿りついたという点でシンクとエクレの頑張りと成長も重要なポイントだ。
しかしなにより際立っていたのは、ミルヒの決意表明ではないだろうか。
シーンの順番は違うが、5話ではレオに対して何も言うことができなかったミルヒが、9話ではレオに自分の思いのたけをぶつけることができた。
10話では土地神に対して自分の考えを示し、シンクと共に戦った。
5話で語られたのは未熟な領主としての自分。
それに対する、シンクの「ひよっこでも頑張れば飛べる」
そして、この戦いにおいて、ミルヒはついに羽ばたこうとしたのである。

■登ること・飛び降りること・キャッチする(すくいとる)こと

ここからは、作品を通じて繰り返されている表現について。
DOG DAYSは、飛び降りる/落ちてくるということを印象的に描いている。
特に顕著なのは1話だ。
まずOPは飛び降りるシンクから始まり、本編も地球側は飛び降りるシンクがなんども描かれ、Bパートの召喚でもシンクは落ちてくる。ラストの勇者参上でもシンクは飛び降り、さらにはEDのラストも空から落ちてくるシンクなのである。
2話でもシンクは上空から落下して閣下を撃破するなど、落ちることとシンクは切っても切れない関係である。
圧巻は、5話のトルネイダーのシーンで、コンサート会場にラストスパートするのが、急勾配の坂によりあたかも落ちていっているように描かれているのである。

また、同様に何度も描かれているのがシンクがキャッチするシーンで、これは飛び降りとセットにして描かれることも多い。
他にも、6話で剣を鞘をキャッチするシンクなど。
そして重要なのは、7話でミルヒとフリスビーをしたこと。
ネタ的な意味で捉えられることの多いこのシーンだが、シンクだけでなく、二人で、ミルヒも落とさないようにキャッチをしている、というのはこの作品に取って重大な事実であろう。
もちろん、これが10話の子狐をキャッチするミルヒに繋がっているのは言うまでもないことだ。

そして最後に、登ること。
高いところから飛び降りるためには、高いところに登らなければならない。
しかし、シンクが自力で登るシーンは、6話の回想シーンと9話のラストだけなのである。
1話ではどんどん高いところから飛び降りていき、フロニャルドに落ち、戦場に降り立つという特徴的な作りだ。
2話はエクレの力で飛び上がっており、エクレの相棒としての関係性が示されている。
そして、6話の回想シーンで壁を登っているシンクは、勇者に選ばれた理由と直結しており、ならば9話の壁登りも、シンクの勇者としてのアイデンティティを示すため重要なシーンであることは自明である。

さて、ではこのことを念頭に9・10話を見てみよう。
壁を登るシンク。
これはもちろん飛び降りることの前段階である。
トルネイダーによって落ちながら魔物へ向かうシンク。
さらにシンクを上に押し上げる相棒・エクレ。
そして子狐をキャッチするミルヒ。
これまでの描写が集約された、見事な、感動的なシーンだというほかないだろう!

で。
9話の時点では、魔物が空から降りてきたのは、シンクとの対比であり、新キャラ参戦時に高いところで見得を切るというこの作品の法則に基づいていると考えていたのだが。
10話を見て、これはどうも、キャッチすべき/すくうべき対象であるから空から落ちてきたのではないかという考えに至った。
ならば、やはり同じく空から落ちてくる妖刀をシンクが落としてしまったのは、不安要素になってくるのだが……。
良いものも悪いものも空から落ちてくるという思想として考えてみるのも面白いかもしれない。

■応援すること

この作品の特徴に、戦がテレビ中継されているという設定がある。
そもそもこの作品がTVアニメである以上、この設定はとてもメタなものだと言える。
今回は、この設定がどんな役割を果たしているのか考えてみよう。

このテレビ中継という設定、実際にお茶の間でそれを見ている市民の描写が、全くと言っていいほどに無いことにお気づきだろうか。
これについて、こう考えることはできないだろうか。
テレビ中継を見ている市民、それは僕達なのだ、と。
スポーツのような興業として描かれる戦。
それを見るとき、僕達は観客であり、応援する存在なのだ。
そう、アイアンアスレチックに出場するシンクを応援するベッキーのように。
その様子を星詠みで見ていたミルヒのように。
OPのラストの前。
見守るロランとアメリタ、声援を送るミルヒとリコッタ。
このカットこそが、この作品の象徴の一つであると言っても過言ではないだろう。
だから僕たちはシンクを応援する。
そしてそれに応えようと、期待を裏切るまいと走るシンク。
ベッキーの勇者にはなれなかったが、この国の、ミルヒの勇者にはなれるようにと。
それは僕達の勇者であるということでもあり、だからこそ、この構図がシンクの回想を、独白をこの上なく感動的なものにしているのだ。

■トルネイダーの上のヒロインたち

ミルヒもエクレも超可愛いよね!!!!
って話。

トルネイダーの上でのあり方が、エクレとミルヒで対比されていて、それがとても良いのである。
エクレは分かりやすく頼れる相棒ポジションであり、可愛く、強く、伏せ可愛いのである。
5話で、ミルヒはお姫様抱っこ→体操座り→シンクに立ち上げられ後ろから支えられる……というあり方であった。
それが、10話では後ろから支えられつつも自分で立ち、向かっていくという、成長を象徴するあり方になった。
可愛い。
どちらも可愛い。
もふもふ、もふもふ。

■これまで描かれてきたもの

「魔物が出てきた、これからが本題か」「ついにシリアス始まったか」――このような見方をしていた人には、10話は消化不良であったかもしれない。
しかし、それは観点の問題ではないか、と僕は考える。
では、この作品は一体何を描いてきたのだろうか。
これまでに挙げた点も、作品理解の助けになると僕は信じているが、ここでは更に踏み込んでこの作品がどのようなアニメなのか考えてみよう。

DOG DAYSは日常アニメである。
というと、語弊があるかもしれないが、10話でシンクが重要なことを言っているので、見てみよう。
曰く、「アスレチックと同じだ」
アスレチックとは、シンクにとって日常である。
ということは、戦=アスレチック(日常)であり、これが魔物=アスレチック(日常)ということに接続される。
実のところ、この作品は大きなことを描いているわけではない。
応援に応えたいアスレチック好きな少年が春休みに出会った、少し変わった日常の話だ。
原作・脚本の都築氏が以前HPで述べていたのだ、――正確に覚えていないのでうろ覚えの要約になるが――『自分にとってジュブナイルとは、少しの期間の不思議な出会いと別れ、そして以前と同じ日常と、少しだけ変わった自分』というようなことを。
DOG DAYSもそのフォーマットに則った作品ではないだろうか。
だとすれば、ベッキーは帰還したシンクの成長を分かってあげれば、そこにこの作品は収束される、とても大事な役回りなのだ。
だから要らない子とかいうな。
幼馴染みなめんな。

ミルヒたちに関してもそう。
ミルヒとレオのあくまで日常の範疇で理解できる悩みと成長。
ミルヒがシンクを勇者に選んだ理由。
シンクが勇者にこだわる理由。
そんな、なんでもないような心情がこの作品のラインであって(魔物に対するミルヒの向き合い方もそう)、つまり、そんな少し変わった日常の、彼、彼女たちの心と関係の揺れ動きが、描かれている対象なのだ。
だから、回想で語られたシンクの行動原理。
レオに向かい合うミルヒの気持ち。
魔物とて特別じゃないんだという二人の信念。
極論を言ってしまえば、大きな展開はこれらの心情を描くためのギミックであり、その逆ではあり得ず、それは作品において徹底されているのである。

■そして最後にレオ閣下は……

これまで、レオ閣下については意図的に書いてこなかった。
なぜなら、現時点では上手く語れないからだ。
正直、非常に難しいキャラクター。
書けると思ったら書きたいが、作品が終わるまで書けないかもしれない。

まあそんな感じで、これからは毎週DOG DAYSについて書いていきたいなと思っております。
他のアニメについてもね。

※軽く追記:次回以降は、サブタイトルからしても花の表現に注目。
花に関する描写も、1話から繰り返されているので。

テーマ : DOG DAYS
ジャンル : アニメ・コミック

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