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DOG DAYS SASUKE・プロレス・アイドル・AKBにファンシズム――「応援すること」

※作品に関するネタバレはあまり無いと思います。

DOG DAYS13話まであと数日。
その前に今まで述べられなかったこと、詳細を省いたことを記事にしようと思い立ちこんな記事を書いてみたり。

■応援すること再論――アスリート勇者

10話の感想で書いた応援することについて。
言葉足らずだったり、さらに発展したことが言えそうなので今回はそれについて。

この作品の特徴の一つである、戦(およびさまさまな事象)がテレビ中継されることが、TVアニメである本作においてどのような効果を持っているのか。
まず着目したいのは、戦の中継を観ている人間が映されたシーンがほぼ存在しないということ。
では、一体この中継は誰に向けて放送されているのだろうか。

それは我々視聴者ではないか。

我々視聴者は、まさにフロニャルドの戦の放送を見ている視聴者であり、その意味で一種のメタ構造を本作は持っているのである。
このことは、作品自体が画面を通したものなのだと否が応でも意識させる。
さらに、戦自体が興行であるということと、シンクが競技者であるということが、作品の受容に影響を与える。
SASUKE、たけし城――そのような形容をされることが多いこの戦は、つまり画面の向こうで行われている競技であり興行なのだ。
実際にこのような競技を、我々はどのように見ているだろうか。
一喜一憂したり、笑ったり、つまるところ応援している。
この応援するということが、DOG DAYSにおいて重要となってくるのだ。
OPのラスト、シンクが紋章砲を放つ前のカットで、見守るロランとアメリタ、声援を送るミルヒとリコが描かれるのが、作品の核心であることはこれまで視聴してきた人ならわかるであろう。
そしてそんな本作において主人公であるシンクが競技者であるのは道理なのだ。

■プロレス殿下

さて、それらを前提にして。
5話でガウルがさらに新しい概念を導入する。
曰く、フロニャルドの戦興行は視聴者をド派手に魅せて楽しませるためのものである。
これに近似する現実での概念は、プロレスだろう。
ガウルとジェノワーズがプロレスごっこを行うのも、それを裏付けている。
視聴者はプロレスのごとく戦を受容するのだ。
そのように考えると、戦興行とプロレスに相似点が見えてくる。

第一に、脚本があること。
プロレスにブックがあるのはもはや自明のことであるが、メタ的に見ればあらゆるアニメには脚本が存在し、勝敗などは決まっている。
しかし、それらは視聴者に事前に示されたりはしない。
第二に、物語があること。
プロレスは格闘技のように(これは度合いによるのだが)システマチックに試合を行うわけではなく、抗争などの物語に則り試合を行う。
観客はそうした因縁、意地、それらをまとめた物語をも楽しむ。
アニメもそうであることは言うまでもない。
第三に、笑いとシリアスの混在。
プロレスを見る人ならば知っていると思うが、プロレスには「笑い」が存在している。
滑稽な試合を行って笑いを取るエンターテインメントでもあるのだ。
しかし同様にシリアスな試合も存在するし、それらがひとつの試合に混在していることも珍しくはない。
DOG DAYSもシリアスになりきらずにギャグを挟むことがよくあるが、プロレスと同じ文脈で理解できるだろう。
第四に、感情移入のあり方。
基本的にプロレスラーの人生や深い性格などを知ることがなくても、観客はプロレスラーを応援するし、感情移入すら出来る。
DOG DAYSはキャラが多くて掘り下げが足りないという意見を見ることがあるが、そもそもそれがなくても良い「応援」という軸を持った作品なのだ。
プロレスの応援に必要なのは掘り下げではなく、興行と試合におけるはっきりとしたポジション、それにわかりやすい個性である。
まずそうしたものを見せ、その中で人物の歴史を感じさせるのだ。
これはプロレスに限らず他の競技でも言えることだ。
そういう意味で、DOG DAYSのキャラクターはプロレスラー的によく描かれていると言っていいだろう。
他にもオリジナルティのある技名や、(これも他の競技にも言えるが)実況と解説の存在などもあげられる。

だが、もっとも重要なのは、プロレスの観客もやはり応援しているということだ。
すでに結末は決まっていることや、ギャグが挟まること、そういったことと関係なくプロレスの観客は応援する。

■アイドル領主

ミルヒオーレはアイドル領主である。
そんな彼女もまた、応援される存在である。
アイドルとは、応援されてこそアイドルたりえるからだ。
コンサートで歌えば皆が熱狂するし、MCを行えば大声で応える。
これは応援されているからこそであり、同時に応援しているものは皆幸せになれるのである。
逆に応援されるアイドルは応援してくれるものを、幸せにしなくてはならない。
応援するものと応援されるものの幸せな関係。
それがアイドルであると言えないだろうか。

そしてその応援―被応援関係を政治にまで延長したのが、アイドル領主という存在である。
そして――

■ファンシズムとAKB48

その関係を表す言葉に、ファンシズムという造語が存在する。
これはAlice Softのゲーム『大帝国』に登場する言葉だが、端的に言えば、「アイドル的な人気によって選挙に勝った、ファシズムのパロディ」のことである。
この、アイドルと選挙というものを考えたときに、避けて通れないものが現在存在する。
AKB48である。
ここでAKB48について詳しく語ることはしないが、アイドルを応援することが選挙に結びついている様は、ファンシズムという発想が一定の社会性を持っているということができるだろう。
AKB48を社会現象と言っても何ら過言ではないと思われるし、。
さらにこのファンシズム的な幸福関係を現実の政治と結びつけることは容易であるように思えるが(誰に投票しても政治が変わらないならアイドルでいいという冗談は散見された)、やはりこれも本題とは外れる。
ここで重要なのは、応援関係に社会性があるということだ。

■応援作品

このように、DOG DAYSは様々なレベルでの「応援すること」が行われている作品であることがわかる。
そしてこの「応援すること」は、現在大きな力を持っているのだ。
昨年のサッカーワールドカップが非常に高い視聴率だったのは記憶に新しいが、あれも「応援すること」力の大きさをあらわしている。
AKB48の社会現象化も、「応援すること」の力だと言えるだろう。
非常に多くの人が、応援することに魅力を感じているのだ。
それは、アニメにおいても同じなのだと僕は思う。
応援すること自体に魅力がある。
だからこそ、老若男女さまざま人が応援することに熱中するのだ。

本作はそんな「応援すること」に焦点を当てた作品であり、そこが魅力なのである。
我々が応援するように、キャラクター達は応援されることを自覚し立ち居ふるまう。
その極めつけが10話でのシンクの独白であり、ミルヒだけでなく、視聴者の応援・期待を裏切りたくないと挑戦していく姿は本作のハイライトであり、象徴である。
応援するものとしてそれ以上の言葉、行動があり得るだろうか。
応援するものとして、最大の感動の瞬間である。

この作品を、キャラクターたちを応援し、それに応えてくれる。
それが画面を通した視聴者と作品との関係である。

だから僕はDOG DAYSを応援し、こうして記事を書いているのだ。





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テーマ : DOG DAYS
ジャンル : アニメ・コミック

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No title

いつも真夜中ですみません。
注意書きされていらっしゃるので、今から投稿する内容にはそこそこネタバレが含まれることを予めお伝えしておきます。

・応援する者の願い
それは自分の声が届くこと。
その声が勝利をもたらす祝福となり、成功を収める鍵となり、希望を照らす光となること。
その声が、『無価値な自己満足なんかじゃない』と応えて見せてくれること。

DOG DAYSを改めて「応援」というテーマに沿って読み解いていくと、応援の力というものを肯定する要素が至るところに存在していたことに気がつきます。
更にそれだけでなく応援者の限界も描かれている。
なんだかスッキリした気分です。

・画面の向こうの視聴者
ここで軽く「星詠み」についても触れてしまおうと思います。
星詠みとは、探し物や遠い世界の出来事、そして未来を、「映像盤に映した映像」として見る紋章術。
探知については詳細不明ですが、千里眼に関しては(おそらく)リアルタイムで現実の出来事を見られる「生中継」的なものと考えていいと思います。
そしてミルヒは、アイアンアスレチックに参加していたシンクを応援する「視聴者」として描かれていた。
未来視は言うなれば「予告動画」。
そこに映されるのはドラマの出演者であり、6話の時点ではシンクとミルヒ、そしてパラディオンとエクセリードのみ。
ここでは星の鏡を見るレオもまた「視聴者」の側面を持っていると言える。
視聴者は、画面の向こうの出来事には本来干渉のしようが無い。
これが、レオがどれだけ心を砕いてもミルヒの運命を変えることが出来なかった理由の一つではないか。
そしてもう一つ思い当たる理由。
それはやはり、レオがミルヒのことをあくまで庇護しようとしていたことです。
何故なら、面白いことに本作におけるエッセンスの一つである「守護の力」は、問題を直接解決する為にはほとんど機能していなかった。
例えばけものだま化は、命の危険を肩代わりする代償に(一時的とはいえ)無力化するというもの。
安全を保証することは勝利を導くこととは違うという事実がここにあるわけです。
更に、魔物が現れた時には守護力は大きく弱まり、勇者と姫は庇護から離れて戦わざるを得なかった。

応援者の限界とは「被応援者の代わりにはなれない」ということだと私は思います。
悲しいことも、苦しいことも、そして決断も、負うべき者が負わなくてはならない。
そうすることでしか運命は変わらない。

・舞台の外側に立つ者たちの力
さて、先の文章で星詠みの未来視=ドラマの舞台だ的な発言をしました。
この未来視は10話での決戦直前に登場人物の変化があります。
おさらいすると、6話ではシンクとミルヒ、そして「棒形態のパラディオン」と「半覚醒形態のエクセリード」。
10話ではこの内のミルヒ以外が外されて、レオと魔物が加わります。
これが意味するのはドラマの内容が変わったということ。
視聴者の興味はミルヒと魔物の邂逅に集中していきます。
そしてもう一つ、シンクと宝剣達が映像から抜け出すことによって運命からも抜け出し、「応援する者」にまわったということ。
シンクはミルヒの「この子を救いたい」という気持ちを支え、宝剣達は『頑張れ』とちょっとだけ力を貸した。
更に挙げるとすれば、一度映像から脱落した者達は、決着の舞台に「辿り着く」までが描かれていた。
トルネイダーはミルヒの元へ、そして禍太刀の元へ。
レオは物理的に舞台を離れることで運命から遠ざけられる。
しかしこの御方は距離を無視する超長距離狙撃によって、「加勢」と「到達」をまとめてクリアしてしまったのである。

忘れてはいけないのがエクレとルージュ。
最初から星詠みの外側にいたこの二人は、決着の場に居合わせることは無かった。
しかしエクレは、「姫様を頼む」と勇者に希望を託し、ゴールへの道を後押しした。
ルージュもまた、レオの苦悩を理解して付き従い、一矢報いようと構えるレオをしっかりと支えた。

これこそが、舞台の外側に立つ者達の応援の力。
その声が届いたなら。
その声は紛れもなく、応援される者を祝福する力となり得るんだ。
というのが、私の受け取ったメッセージです。

いい気になって解釈を広げまくってしまい、長々書いてしまい申し訳ありませんでした。
仮定とこじつけのオンパレードではありますが、読んで下さる方に少しでも楽しんでもらえれば幸いです。
ツッコミも歓迎です。
いよいよ最終回。
最後までDOG DAYSを応援しましょう!

Re: No title

>イヌヒオーレ様
コメントありがとうございます。
時間はお気になさらず。

>星詠み
徹底して画面によって分割しているんですよね。
であれば、たしかにレオも視聴者側なのでしょうね。

>応援者の限界
これは面白いですね。
他者の運命は引き受けられないわけですね。

>舞台の外側に立つ者たちの力
これも納得できます。
特に脱落したものが辿り着くという解釈は面白いです。

いろいろと考えさせられるのですが、上手くまとまらないので、新しい記事の中で触れられたら……と思います。
この辺のことだけで記事を書ける気もしますね。

というわけで、もうすぐですか。
最後まで走り抜けましょう!
素晴らしい解釈をありがとうございました。

No title

そういえば都築さんって格闘技好きな方でしたね.
確かなのはラジオでパーソナリティに「休日は何をされていますか?」って質問が来た時に都築さんはどうなんですかーって話を振られてそう答えてたと思います.

Re: No title

>名無しさん様
コメントありがとうございます。
記憶が不確かなのですが、なのはラジオは全部聞いたはずなので憶えがあったのかもしれません。
作風的にもそういうのが好き、あるいは参考にしているんじゃないかって印象がありますね。
格闘技以外にもいろいろとちゃんぽんしてそうですが
プロフィール

Author:はまじじゅん
まとまったアニメの感想とか書ければいいなあとか。
コメント・TB大歓迎。
特にコメントは超お気軽にどうぞ。
TwitterID:hamaji_jun
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