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DOG DAYS 11話 成長を示す、花咲くコンサートのリフレイン そして作画の話

実に、実に素晴らしい。
まさしくこれまでのミルヒとレオの物語の収束点である。
そしてまた、人によってアニメの、世界の見え方は違うのだと深く実感した回でもあった。
いや、まあ作画もそうだし展開に関する感想とか読んでてね。
果たして、あなたの見てきたDOG DAYSは、僕の見てきたものと同じなのだろうか。
なぜ僕がこれほどまでこの作品を絶賛するのか。
これから、僕がこの作品に対しどのような立ち位置にあり、どのような眼鏡をかけているのか、示していこうと思う。
具体的には本作を視聴する上での、追っているラインを示す。
それによって、DOG DAYSへの一つの新しい展望を切り開ければ幸いである。
その前に、11話の予習記事を読んでいただければ話がわかりやすいかもしれない。
予習記事は運命が変わった理由とかも書いたのできっとおそらく要チェック!
今回は力入れていきますよ!

■5話のリフレインと、ミルヒの成長

以前述べたとおり、ここ数話は4・5話との対比となっている。
つまり誘拐→勇者超特急→コンサートという流れであり、そうである以上、5話との違いが重要になってくる。
まず、4・5話の主題となっていたものは何であったか。
それは、ミルヒのレオへの思いであろう。
しかし、ミルヒはレオに自分の思いをぶつけることができなかった。
そして、その流れで、シンクに「自分はまだまだ領主としてひよっこだ」と言うのである。
もちろんミルヒの為政者としての成長も、前回を見れば明らかなようにしっかりと描かれている。
だが、根本的なミルヒの心情は、レオの態度に直結している。
レオが自分にあのような態度をとっているのは、何が理由にせよ、自分がひよっこで信頼されていないからだ、と。
そのため、ミルヒがレオに自分の思いをぶつけ、その信頼を勝ち取ることがDOG DAYSの主題の一つであることは5話の時点で明らかであったし、そこを追って視聴していくべきではないか。
だからこそ、ミルヒが戦場に出て、レオの前に立ち、思いをぶつけるシーンが感動的なのである。
5話とは違い、今回ミルヒはレオに伝えることができた。
対等になれたのである。

「レオ様に『守っていただいてばかり』だった小さなミルヒも、今ではそれなりに『大人』になっています」

結果、5話とは違い、レオもミルヒのコンサートを聞くことが出来るという展開に繋がっている。
これこそまさしく、ミルヒとレオのの物語の着地点として相応しいだろう。

ただ。
今回新たにコンサートを聞けないキャラがいた。
リコッタである。
彼女を含め、今度こそ全員が聞けるミルヒの歌。
そこが、この作品全体の着地点となるのだろう。
このように、ミルヒのコンサートは作品を象徴するシーンであり、常にそれまでの流れを読み取りながら見ることで、見え方が変わってくるのである。

■大人と子どもの境界線

さて、5話についてもう少し詳しく見る必要がある。
それは、大人と子どもの境界線である。
そもそもこの境界線がレオによって作中に導入されたのは4・5話である。
彼女に言わせれば、シンク・ガウルは子どもであり、自分は大人だ。
そしてレオ本人がどう思っているかはともかく、ミルヒは自分がひよっこ=子どもであることがレオの態度の原因であるとして悩む。
実際、レオにとってミルヒは庇護すべき対象であって、その意味では大人扱いしていないのだろう。
レオは、ミルヒが星読みの件を知り思い悩むことすら許容できないのだろう。
それが、全てを自分が引き受けるという態度なのだ。
しかし、そもそもレオは大人であると言えるのだろうか?
公式サイトのキャラ紹介で、年齢表記のあるキャラと無いキャラがいて、レオは表記のあるキャラで最年長の16歳である。
この区分が大人と子どもの境界線だとすれば、レオは子どもだということになる。
そのようなことを考え視聴してきたが、今回、一つの回答がロランの口から語られた。

「レオ様も領主として立派にやっておられるとはいえ、まだお若い。」

だから、大人が支え、見守っていこうと。
それは、ミルヒがレオに思いを伝えたときにも言った言葉だ。

「信頼する臣下や、友人もいます」

これこそが、一人で全てを背負い込もうとしてきたレオへの回答である。
「世界はキミだけがいればいい」「キミのいない世界なんて」
しかし、子どもが大人になるのは周りの支えがあってのものである。
そうやって、少しずつ大人になっていく。
そうした存在としてのオンミツ部隊。
ユキカゼがとてつもなく年長者であることも示された。

これは大人と子どもの間の、中途半端な時期に、陥りがちなセカイ系的想像力に対する、一つの回答とも解釈できる。
社会と人間関係を描けば、当然そうなるし、キャラクターの多さもそういった意図があるのならば納得出来るはずだ。
深い人間関係だけを描くのが、常に是であるとは思わない。
しかし、これらは今回の主題ではないので置いておく。
まどマギ辺りと比較すると面白いかもよ?(放言)

とにかく、DOG DAYSは、大人になっていく子どもと、それを支えている周囲というテーマがあり、これも視聴の上での軸となるだろう。

年齢表記のないジェノワーズ?
あれは子どもというよりバカ……。

■シンクの帰還

このように、周りに人がいてくれることの大事さを描いている本作であるが、忘れてはならないことがある。
シンクの帰還である。
シンクは帰ることを望んでおり、また、再び勇者として召喚することをミルヒが約束している。
しかし、それが不可能であるとしたら?
次回のサブタイトルである4つの条件がそのようなもの――再召喚の不可能、あるいはフロニャルドでの記憶の忘却など――であった場合だ。

「居なくなったりいたしませんから」

ミルヒがレオに言った言葉。
しかし、シンクが居なくなるのだとしたら?
これから描かれるのは、どのような形であれ、別れの形だろう。
人と人のふれあいを描いてきた本作がどのような別れを描くのか。
注目である。

■夜空に花が舞うように

11話の予習記事で「花」とは何かについて書いたが、今回。
花は、ミルヒのコンサートに収束した。
ミルヒの衣装も花をモチーフにしている。
5話も含め、本作はミルヒに、そしてミルヒのコンサートに収束していく。
皆が見る、花としてのアイドル・ミルヒ。
そのコンサートは本作の象徴であり、収束点だ。
5話のように、皆が見つめ、レオは憂い、エクレはシンクを気にし、シンクは疲れ果てながら「いい歌だなあ」と充実感を得る。
今回においても、今度はレオが聞き、エクレがデレデレ、そして土地神のシーンのように。
もう一度言うが、まだあるであろうミルヒの歌のシーンは、本作の着地点となるだろう。

また、コンサートでミルヒが花を掴んで高く投げたのも注目したい。
同様に、7話のフリスビーのシーンで、ミルヒはキャッチしたフリスビーをとても高く投げた。
そして今回、土地神が空へと駆け抜けて行った。
この土地神は、10話でミルヒがキャッチした存在である。
だとすれば、予習記事で書いたように、落ちてきたシンクをキャッチしたミルヒは、再びシンクを空高く舞い上げねばならない。
それは、まさしくシンクの帰還であり、その展開は必然なのだろう。
ミルヒが手を高くあげる時に花火が打ち上がる描写とも関連付けられるかもしれない。
シンクが飛び降りてキャッチするように、ミルヒはキャッチして高く投げ返す存在なのだ。

ユキカゼによって妖刀が徒花と表現されていたのも、本作を花を使って語るのには重要。
それについては、是非予習記事を。

■作画語り

今回の見所はなんといってもコンサートのシーンである。
語る言葉など無いと思わせるほど素晴らしい。
が、出来る限り具体的に語りたいと思う。

まずわかりやすいところでは、手が上手い、それはもうすごく。
凄まじい立体感、空間把握と、綺麗な指の動き。
一度、手だけに注目して見てほしいくらいだ。

そして、これが最も特筆しべきことだが、タイミングの気持よさ!
ミルヒもそうだが、リズムに合わせて揺れるキャラのタイミングがこれでもかという程に気持ちいい。
ただ揺れるだけでなく、肉体を伴って、キャラ自身がリズムを取ってるのが伝わってくる、極上の作画だ。
特に、ブリオッシュの手拍子は、今まで見た中でも最高の手拍子なのではないかとすら思える。
見ているだけで、こちらの体まで動いしまうような、そんな芝居付けに感服するほかない。
呼吸すらできない!

一番目を惹かれるのは、衣替えをした後に花を掴んで投げるところだ。
見ているだけで仰け反ってしまうほど上手い。
上手すぎてこれに関しては本当に語る言葉がない。
泣きそう。

表情!
エクレがエロい!
もう、セリフがなくても感情が伝わってくる。
シンクが、ごめん、殴られる! と思ったのが手に取るように伝わるし、土地神登場シーンでミルヒが驚きながらも歌をやめないのもしっかりとわかる。
レオも、非常に難しい角度の顔を、これが一番彼女の心情を表せるのだと、納得するしか無いレベルで描かれている。
なにより、舞台を眺める子狐の表情!
どのような気持ちなのか、何を思うのか。
想像力が膨らむ、恐ろしいほど秀逸なカットだ。

子狐といえば、子狐自身も素晴らしい。
見ただけで子狐の骨格がわかるような、骨肉があるのが伝わってくる作画!
それは人に関しても同じで、例えばミルヒの肩甲骨! 
骨があり、肉がある。
だから体重移動が生まれ、予備動作があり、意識的ではないゆらぎが生じる。
この作画には肉体があり、ゆえに無意識がある!
無意識が描かれる作画こそが僕にとって最上である。
人間は自分が思った動きだけをしているわけではない。
常に無意識で身体をコントロールし、それが描かれるためにキャラクターに実在感が生じる。

格好悪い表情もまた、素晴らしい!
実在感を高めるなら、格好悪い表情もまた必然。
それによって、キャラクターの感情が『生』のものであるように感じられる。
格好良い表情だけを描くのが正解なのか。
そんなことはないだろう。
そもそも、こんな難しい角度の表情をぽんぽん描かれたら、それだけで実在感うなぎのぼりである。

キャラクターの描き込みではなく、密度ではなく、その芝居の発想とタイミング。
それこそが実在感を生むのである。
それこそが心に響くのである。
この瞬間、まさしく彼らは存在するのだ!
これこそが作画におけるリアリティでありオリジナリティ。
新しいものを見せてくれたことに感謝である。


■なぜここで実在感か

では、なぜこのような方向性で演出されたのか。
吉成鋼だから、というのもひとつの回答だが、そもそも氏に仕事を振ればどのようなものが出来るのかはわかりきっているだろう。
つまり、そこには演出上の意図がある。
では、それは何か。

以前触れたように、この作品は一種のメタ構造を持っている。
それは、作品で描かれることは全てテレビの画面を通したエンターテイメントである、という構造だ。
そして、それが今回取り払われているのだとすれば、どうだろうか。
今回は5話と違い、コンサート中に場面が飛ぶことはほぼ無い。(最後のリコだけであり、そこは通常の作画である。)
5話においてはコンサートは生だけではなく、画面に映されたものを見ている描写が何度もあったが、今回はそれがないのである。
全員が全員、コンサートを生で見ているのだ。
であれば、視聴者の席も画面の前ではなく、コンサート会場にあるのだ。
画面を通さずに見たキャラクターたちに生じる実在感。
そこに生じる、体感的な歌の気持よさ。
そういったものが表現された、近年稀に見るシーンであったと評価できる。

この流れについては、11話でモブが顔つきで表現されていたことにも注意しよう。
フィルターが取り去られ、実在感が増していくのが1話を通して丁寧に準備されているのだ。
それは、いつものようにカメラが主張されず、リコとユキカゼの覗き見ていたように、また、ロランとアメリタが隠れ見ていたように、視聴者が現地に視点を導入されていく段取りでもあった。

■作画崩壊という言葉の定義

さてさて、今回のコンサートの作画。
賛否両論であるが、気になることがある。
正確には以前から思っていたことでもあるが。
それは、作画崩壊という言葉の定義だ。
この言葉は一体何を意味しているのだろうか。

そもそも、見る限りこの言葉の定義につて共通認識は無いように思える。
そんな言葉を気軽に使うこと自体百害あって一利なしだと思うが。
とはいえ、この言葉を使っている以上、おそらく何かを表現しようとしているのだろう。
では、それは何か。
はっきり言って人によって違っているのでわからないのだが、気になるのは客観的に作画崩壊のラインがあるという想定があるのではないかということ。
しかし、そんな想定可能だろうか。

そもそもどのような作画が作画崩壊と表現されるのか?
キャラ表と違う作画か?
しかし、キャラ表が示されていない作品に対しても、この言葉は使われている。
さらに、キャラと違う表情、角度で描かれたものは作画崩壊となってしまう。(今回はそのように使われている節もあるが。リアリティを考えれば、格好悪い表情があるのは必然である)
さらに言えば、キャラクターデザインが描いた絵が作画崩壊と言われることがあるのだ。
では、これまでの話数に出てきた絵との比較か?
だが、1話から作画崩壊と呼ばれる作品がある。
また、初めて出るデフォルメ絵に対して作画崩壊と言うだろうか。
言わないのであれば、情報量を増やした、言わば逆デフォルメと呼ばれるものを作画崩壊というのもおかしいだろう。(この点に関してみなみけのそれを無邪気に作画崩壊と言っていた人もいたと思うが)
絵の巧拙のことか?
であれば、素人判断はできない領域の問題だ。
そもそも今回に対する反応を見れば、巧拙について判断できている人間は作画崩壊などと言わないだろうことは明らかだ。

このように作画崩壊には多様な定義があり、最終的には絵の巧拙か、あるいは好みの問題に還元されるのではないか。
そして、絵の巧拙についてなにか言うにはそれなりの知識が要求される。
アニメ制作の工程に関する知識すらまともにない人間が、果たして使っていい概念なのか。
必要とされるのは単純に絵の知識ではない。
アニメ制作はあらゆる分野が繋がっており、単純に絵だけを取り出すことは困難だからだ。

であれば、好き嫌いの意味で使われることになるが、果たしてそれに作画崩壊という言葉を用いるのは正しいのだろうか。
なぜなら、ここで言われていることは主観の中の何かと実際の画面との不一致のことであり、それを作画崩壊と言うのは実情と字面が違いすぎるだろう。
もっと適切な、主観的な言葉を使うべきではないか。

このように多義的に使われている言葉をあたかも共通認識があるかのように用いて語り合っても、実際には何も語り合えていないのと同じである。
そのような空っぽの、しかし負のイメージの強い言説が蓄積していくことがアニメのためになるとは到底思えないし、使っている人間のためになるとも思えない。
まあ、あくまでアニメはコミュニケーションのための踏み台で、中身がなくても何か言い合うだけを目的とするのなら話は別だが。

だからこそ、アニメを語るときに作画崩壊という無責任な言葉を用いるのはやめてほしいというのが僕の思いである。
世には作画崩壊というレッテルを貼られた作品が多くあるが、どれも作品によって実情が異なっている。
それをひとつの言葉で一括りにするのが正しいとはどうしても思えないのだ。

今回の作画に不平を言うのをやめろと言っているわけではない。
それは好みの領域であり、あるいは明確に問題のある映像であったことを示す根拠があればいいのだから。
ただ、そのことを作画崩壊という言葉で覆い隠し、実際に自分が何を感じたのか言語化せずに、埋もれさせてしまうのは非常に勿体無いと思うのだ。
僕の願いはアニメをめぐる言説の豊穣である。
それを空っぽに還元してしまう言葉には、反感を抱いてしまう。


本編と直接的には関係の無い余談が長々と続いてしまった。
兎にも角にも、残すところはあと2話。
一体どのようにこの物語を締めくくってくれるのか、期待である。
個人的にはエクレに注目せざるを得ない。
ちょう可愛い!

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テーマ : DOG DAYS
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No title

初めまして、感想楽しく読ませて頂きました。そして作品と向き合うこと、モノを見るとはこういうことか!と感心致しました。
私もこの作品は好きなので、是非コメントさせて下さい。

>リフレイン
作中序盤で見せた展開を終盤で踏襲する形式は好きですね。愛を感じます。
しかし、同じものを見ている筈なのにこれだけ読み取れるものに差があるとは… 。
大変勉強になりましたし、おかげでより「DOG DAYS 」を好きになれました。

>実在感
私は今回のコンサートシーンを見て「夢の中にいるみたいだ」と率直に思いました。
実際に自分がライブに行った時に体感する空気感そっくりで。驚きました。
派手に展開する舞台装置に照明。ダンサーも良く動き、目の前の光景全部を視界におさめることがまず不可能。
歌い手に一番集中しようとするも視線が定まらなかったり、その場の雰囲気を味わうことに懸命になっている反面、冷静な頭も働いていたり。
そんな中に漂うざらついた、それこそまさに「花火」がはじけ飛んでいるような空気を見事に演出していたなと思います。
作画に実在感があったからこそ、現実のコンサートが作り出す「夢のひととき」の雰囲気を強く感じたのかも知れません。

>作画崩壊
手抜きやミスと断定してこき下ろすような、馬鹿にして楽しむような使い方が多いんでしょうかね。
常により良い作画で見たいって気持ちは分かるけど、その良い作画が何かという定義は確かに難しい。
とりあえず私は今回のコンサートシーンは、始まった瞬間から凄く面白いと感じました。

長々と失礼しました。今後も感想楽しみにしております。
最後に、エクレ超かわいいに全面同意します!
こんなにかわいくなるとは思ってなかった(笑)

Re: No title

>イヌヒオーレ様
コメントありがとうございます。
こちらこそ、是非お気楽にコメントしていただければ。

>より「DOG DAYS 」を好きに
ありがとうございます!
僕に取って、この上ないお言葉です。

>ライブに行った時に体感する空気感
そうなんですよね。
本当にその場にいるかのような感覚がありました。

>現実のコンサートが作り出す「夢のひととき」の雰囲気
作品自体も終盤であり、夢のひとときが終わっていく感覚が寂しくもありました。
ライブが終わりに近づくと、寂寥感があるんですよね。
それはまさしく花火のような楽しさと切なさで。
シンクたちにとっても、僕にとってもこの作品は夢のひとときであるような感慨を覚えます。

>馬鹿にして楽しむような使い方
批判自体はわかるのですが、本来多様であったそれぞれの感想が「作画崩壊」という一つの言葉に回収されてしまうのは、勿体無いし良くないと思うのです。
やはり、イヌヒオーレ様のように自分の言葉で表現された感想によって作品の周囲は豊穣となるし、そうでない感想では何も伝わらないと思います。
ですので、イヌヒオーレ様のコメントはとてもうれしいものです。
ありがとうございました。

>エクレ
コンサートのいい雰囲気の中のハプニングタッチでの反応とか、女の子すぎて最高ですね。
あの何もしないでまた視線をステージに向けるのとか青春すぎます(笑)

これからも出来る限り感想を書きたいと思っていますので、楽しんでいただければ。

11話について

大変遅れてしまいました。本エントリーにはDDの評論を超えた些か重要な問題が含まれており、どう扱ったら良い物かとかなり悩みました。
コメント欄でコンパクトに纏めるのは無理があると判断して、その文脈については極簡単な言及にとどめておく事にいたします。あしからず御了承下さい。
・5話のリフレイン
私はシンクを軸にストーリーを観ていたので、トルネイダーに乗った10話のシーンの方に5話のリフレインを感じていました。しかし11話をみると、まずアバンタイトルのナレーションがない。つまり、11話と10話は繋げてみなければいけない訳です。だとするなら、11話の二人の姫の再間とコンサートシーンは後日譚ではなく、もう一つのドラマ的クライマックスである事になります。勇者と二人の姫、どちらで追っても11話で纏まる構成ですね。シナリオ的には開幕#1~#5、幕間#6、転回#7~#11、になりますから、12、13話をどう使うのかは見所です。上手く纏まったら全体でも良いフィルムになりそう。
・大人と子ども
最初からこれは感じていました。1話から冒頭から11話まで、メインの少年少女達の後ろにはいつも大人達の影を意識的に見せていたと思います。特にロラン子安さんですね。2話でシンクに戦のルールを確認した後、改まって「姫をどう思うか?」と訊くシーンは印象的です。振り返ると、レオ様は自分が保護者であろうとした為か、そういう役どころの人がいません。バナード小野Dさんは頭の切れる忠実な臣下として振る舞っていましたし、そういう部分が二人の違い、ひいては今作のドラマを生んだ要因の一つだと。だから11話で二人して認め合ったのは少しだけ未熟でなくなった事。こういう「少しだけ変わる」の部分が都築さんにとって大切なドラマなのかなと感じています。
・花
えー、前のコメントにも書きましたが1話から「なぜ花?」と思っていました。繋がるのに気が付いたのはこちらを拝見してからです。駄目押しにタイトルにまで出てしまいました。
だめですね。ぐぬね。
で、今話の(フィルムとしても)焦点になっているライブシーンが、いわゆる「作画崩壊」と称される事について。
・認識の齟齬
反応を総覧していて困惑したのが本当に「酷い」作画であると認識している方が多数おられた事です。丁度ツイッターで、はまじ様が西澤 晋さんの作画についての著書についてツイートなされておられましたが、そういう本に関心を持つ、ファンの側であっても多少なりと作画に興味があるか、又はアニメをまずもってフィルムであると観てしまう人間にとっては、作画の為に画面設計をする時には「この被写体をこのレンズで被写界深度はこうで光源はこう、こういうレイアウトで、こういうキーフレームで…」連続する画に落とし込む、即ち描かれた「動画」には必ず「本当はこうだ」というメタが存在するだろう事の認識は御理解いただけると思います(「実在感」に関しては、画の奥にある、その臨場感まで含めた本物を感じさせる演出的必要があったのだと読ませていただきました)。一枚をとって「素晴らしい原画だ」と感嘆し、その画に対してマテリアルとして、あるいは技術力への畏敬の念によって本物感を持つ事があっても、記憶を動員してイメージとして結実した「本物の何か」にいかに近づかんが為の職人的技術、或はセンスが動画にどう用いられているか、という事が(かつては)作画論議の焦点であって(~系の様な分類、流れについてはここでは置いておきます)、放送で見たシーンを「崩壊している」、というのは原動画仕上げが放送できる水準になっていない物、過去には「ヤシガニ」「紙芝居」等と言われた部類のカットを指していたと考えます。
しかしながら。

どうも現在のアニメの消費者たち、それもかなり多くの人達が「キャラシートそのもの、あるいはそれを良く再現した動画」「それ自体」を本物とみなしている節が多々見受けられるのです。そこには何かのイメージからの写像がない。メタがない。そのものであると感じる。それに愛情などの感情を抱く。そうであるなら、一見してそのキャラに見えない事は正に「酷い」苦痛を感じるか、ツイートで散見された「(違うキャラに見えて)笑った」「手抜き」という様な反応が出てきてしまうのも、歓迎は出来ないながらも頷けてしまう訳です。
実はつい最近、東京MXではDDの直前にその作画で~キャラシートからの距離的にも高度なアニメート技術的にも~物議をかもした「アクエリオン19話 うつのみや理回」が再放送されたばかりなのですが、これを賞賛なされて(http://yaplog.jp/aslog/archive/175)いた「電波女と青春男」でブリキ絵を再現してしまったアニメーターの西田亜沙子さんは、「@asakonishida 西田亜沙子 DOGDAYSのライブシーンの作画うまかったなあ 6月12日 webから」(http://twitter.com/#!/asakonishida/statuses/79648787387269120)とツイートなされています。キャリアのあるプロには上手いと感じられたと言う傍証が少なくとも一つはある訳です。しかしファンには(「本物」に見えない限り)そのフィルムとしての「上手さ」に価値がないとしたら。

これは認識の齟齬です。その様な観客たちを前にして商業アニメはフィルムとしての、またアニメートの技術としての前進よりもキャラの美観の仕上げと統一を優先させなければならない状況に突入してしまったと感じています。商業映画の1ジャンルである限り、お金をだす観客の変化には従わなければならない。しかしその観客がかつての様に作り手にまわった時、どういう状況が業界に生まれるのか?
実はこの辺りで考えが進まなくなっています。果たして対処すべき物なのかどうかも判らない。視聴者の反応を見るに、もはや作画的啓蒙主義は通じない。
さて、この勝手に繁殖していく妖怪をどうしたものか。一つだけ考えつくのは「もう少し言葉に重みをつけられないか」という事。軽く扱える言葉だから適当にあてがわれてしまう。何かを、誰かを嗤う為に、言葉を軽く消費した結果がこの混乱をもたらしている気がします。とはいえ、イデオロギーを振りかざしても当節、誰もついてきません。困りました。
という訳でオチはありません。ごめんなさい。

Re: 11話について

>ROM様
コメントありがとうございます。
もちろん、コメントはいつでも結構ですし、文量・回数もご自由にどうぞ。

>シナリオ構成
なのはの時からそうなのですが、パッケージ化されたときに見やすいように話数が区切られている感じもします。
ですから、10,11話は一つのディスクとなっているのでまさにクライマックスの巻となりますね。
同様にひとまとまりである12,13話がどうなるかは楽しみです。

>「少しだけ変わる」
都築さんはそういった部分で、絶対に二人だけの世界になるようには描かない印象ですね、ゲームの頃から。
コミュニタリアニズムというか、コミュニティや、それによって人は成長するのだという意識すら感じます。
劇場版なのはの、時の庭園崩壊シーンでフェイトの手を取り引き上げるなのはがTVから変更され無くなっていたのも、フェイトの世界が二人だけに閉じたように見えないようにしたかったのではないかと思ったりもしました。
と、今のは余談ですが。

>「それ自体」を本物とみなしている節
これは現状を非常に端的に表現していると思います。
とてもわかりやすい。
そして、それだけに難しい問題であるのがわかります。

>西田亜沙子さん
他にも山下清悟さんなども絶賛していましたね。
西田さんは最近総作監制に対する疑問を仲間内での会話でツイートしていましたし、現場と視聴者で意識が違っている部分があるというのは確かでしょう。
しかし現実としてアニメが現在の方向へと進んでいるのも確かですし、僕としても懐古主義に陥って全否定するつもりはありません。
ただ、もし僕にできることがことがあるとすれば当然現場に関することではなく、視聴者に関することです。
端からこういったことに興味のない人に言葉を届けるのは難しくても、関心のある人には届くのではないか。
事実僕も昔、作品解釈について「こんなに考えられるのか!」と驚かされた感想サイトに影響されていますし、今でもそうです。
作品を見て、直感で得たものを言語化するための一つの例示として。
それくらいならできるのではないかと考えて作ったのがこのブログです。
視聴者の意識改革なんておこがましいですが、こういった言説を求めている人は、かつての自分のようにいるはずで。
ここによって少しでも作品の見方について考え、得られるものが増えるのなら、より作品を楽しめるようになるのなら。
当然そのためにはまだまだ圧倒的に力不足ですし、妄想の類です。
ただ、それが不可能であるとはどうしても僕には思えませんし、まずは行動に移してみようと。
そうして一人でもいいからこのブログを見て何かを感じてもらえたら。

正直青臭い誇大妄想の情熱を長々と語ってしまって申し訳ないのですが、それがこのブログの第一歩だったりするのです。

僕が感動し、影響された言葉のように、今度は僕が言葉を発していく。
それこそがまず初めにできることだし、途絶えさせないためにやるべきだとすら思います。
仰るように啓蒙なんて非現実的です。
それでもできるとしたら、「こうやって考えて視聴してまた考える」のは楽しいのだと思わせることだし、実際楽しいからやっていて、やめられないのです。
それがムーブメントになって革命が起きるなんてそれこそ妄想、夢のまた夢ですが、ただまあ、できる範囲でやれることを探ってみたいです。
そのために、

・楽しそうであること

・筋が通っていること

この2点は重視したいと思っています。
楽しそうであれば興味を惹かれるし、筋が通っていれば納得、そうでなくても議論を行えます。
逆に言葉の軽い消費を見ても、ある意味楽しそうであり、例えば「売上」という客観的なデータを使って議論のようなことを行えたりします。
その対抗として、考える事の楽しさ、各々独自の視点を持つことの魅力を示すことができないだろうか。

これは世界を思い通りにしたいというわがままにしか見えませんが、上等、そのほうが僕が楽しめる! と開き直っていたりします。
アニメに関する言説を豊穣にするためなら、理論武装だろうと自分語りだろうとやってしまうのです。

そんな感じで決して褒められた動機じゃないかもしれませんが、これが僕の前述の問題に対するスタンスと、ブログを作った理由になります。

答えになっていない自分語りを長々としてしまってすみませんでした。
またいつでもコメントしていただけたら幸いです。
プロフィール

はまじじゅん

Author:はまじじゅん
まとまったアニメの感想とか書ければいいなあとか。
コメント・TB大歓迎。
特にコメントは超お気軽にどうぞ。
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