DOG DAYS 11話 成長を示す、花咲くコンサートのリフレイン そして作画の話
実に、実に素晴らしい。
まさしくこれまでのミルヒとレオの物語の収束点である。
そしてまた、人によってアニメの、世界の見え方は違うのだと深く実感した回でもあった。
いや、まあ作画もそうだし展開に関する感想とか読んでてね。
果たして、あなたの見てきたDOG DAYSは、僕の見てきたものと同じなのだろうか。
なぜ僕がこれほどまでこの作品を絶賛するのか。
これから、僕がこの作品に対しどのような立ち位置にあり、どのような眼鏡をかけているのか、示していこうと思う。
具体的には本作を視聴する上での、追っているラインを示す。
それによって、DOG DAYSへの一つの新しい展望を切り開ければ幸いである。
その前に、11話の予習記事を読んでいただければ話がわかりやすいかもしれない。
予習記事は運命が変わった理由とかも書いたのできっとおそらく要チェック!
今回は力入れていきますよ!
■5話のリフレインと、ミルヒの成長
以前述べたとおり、ここ数話は4・5話との対比となっている。
つまり誘拐→勇者超特急→コンサートという流れであり、そうである以上、5話との違いが重要になってくる。
まず、4・5話の主題となっていたものは何であったか。
それは、ミルヒのレオへの思いであろう。
しかし、ミルヒはレオに自分の思いをぶつけることができなかった。
そして、その流れで、シンクに「自分はまだまだ領主としてひよっこだ」と言うのである。
もちろんミルヒの為政者としての成長も、前回を見れば明らかなようにしっかりと描かれている。
だが、根本的なミルヒの心情は、レオの態度に直結している。
レオが自分にあのような態度をとっているのは、何が理由にせよ、自分がひよっこで信頼されていないからだ、と。
そのため、ミルヒがレオに自分の思いをぶつけ、その信頼を勝ち取ることがDOG DAYSの主題の一つであることは5話の時点で明らかであったし、そこを追って視聴していくべきではないか。
だからこそ、ミルヒが戦場に出て、レオの前に立ち、思いをぶつけるシーンが感動的なのである。
5話とは違い、今回ミルヒはレオに伝えることができた。
対等になれたのである。
「レオ様に『守っていただいてばかり』だった小さなミルヒも、今ではそれなりに『大人』になっています」
結果、5話とは違い、レオもミルヒのコンサートを聞くことが出来るという展開に繋がっている。
これこそまさしく、ミルヒとレオのの物語の着地点として相応しいだろう。
ただ。
今回新たにコンサートを聞けないキャラがいた。
リコッタである。
彼女を含め、今度こそ全員が聞けるミルヒの歌。
そこが、この作品全体の着地点となるのだろう。
このように、ミルヒのコンサートは作品を象徴するシーンであり、常にそれまでの流れを読み取りながら見ることで、見え方が変わってくるのである。
■大人と子どもの境界線
さて、5話についてもう少し詳しく見る必要がある。
それは、大人と子どもの境界線である。
そもそもこの境界線がレオによって作中に導入されたのは4・5話である。
彼女に言わせれば、シンク・ガウルは子どもであり、自分は大人だ。
そしてレオ本人がどう思っているかはともかく、ミルヒは自分がひよっこ=子どもであることがレオの態度の原因であるとして悩む。
実際、レオにとってミルヒは庇護すべき対象であって、その意味では大人扱いしていないのだろう。
レオは、ミルヒが星読みの件を知り思い悩むことすら許容できないのだろう。
それが、全てを自分が引き受けるという態度なのだ。
しかし、そもそもレオは大人であると言えるのだろうか?
公式サイトのキャラ紹介で、年齢表記のあるキャラと無いキャラがいて、レオは表記のあるキャラで最年長の16歳である。
この区分が大人と子どもの境界線だとすれば、レオは子どもだということになる。
そのようなことを考え視聴してきたが、今回、一つの回答がロランの口から語られた。
「レオ様も領主として立派にやっておられるとはいえ、まだお若い。」
だから、大人が支え、見守っていこうと。
それは、ミルヒがレオに思いを伝えたときにも言った言葉だ。
「信頼する臣下や、友人もいます」
これこそが、一人で全てを背負い込もうとしてきたレオへの回答である。
「世界はキミだけがいればいい」「キミのいない世界なんて」
しかし、子どもが大人になるのは周りの支えがあってのものである。
そうやって、少しずつ大人になっていく。
そうした存在としてのオンミツ部隊。
ユキカゼがとてつもなく年長者であることも示された。
これは大人と子どもの間の、中途半端な時期に、陥りがちなセカイ系的想像力に対する、一つの回答とも解釈できる。
社会と人間関係を描けば、当然そうなるし、キャラクターの多さもそういった意図があるのならば納得出来るはずだ。
深い人間関係だけを描くのが、常に是であるとは思わない。
しかし、これらは今回の主題ではないので置いておく。
まどマギ辺りと比較すると面白いかもよ?(放言)
とにかく、DOG DAYSは、大人になっていく子どもと、それを支えている周囲というテーマがあり、これも視聴の上での軸となるだろう。
年齢表記のないジェノワーズ?
あれは子どもというよりバカ……。
■シンクの帰還
このように、周りに人がいてくれることの大事さを描いている本作であるが、忘れてはならないことがある。
シンクの帰還である。
シンクは帰ることを望んでおり、また、再び勇者として召喚することをミルヒが約束している。
しかし、それが不可能であるとしたら?
次回のサブタイトルである4つの条件がそのようなもの――再召喚の不可能、あるいはフロニャルドでの記憶の忘却など――であった場合だ。
「居なくなったりいたしませんから」
ミルヒがレオに言った言葉。
しかし、シンクが居なくなるのだとしたら?
これから描かれるのは、どのような形であれ、別れの形だろう。
人と人のふれあいを描いてきた本作がどのような別れを描くのか。
注目である。
■夜空に花が舞うように
11話の予習記事で「花」とは何かについて書いたが、今回。
花は、ミルヒのコンサートに収束した。
ミルヒの衣装も花をモチーフにしている。
5話も含め、本作はミルヒに、そしてミルヒのコンサートに収束していく。
皆が見る、花としてのアイドル・ミルヒ。
そのコンサートは本作の象徴であり、収束点だ。
5話のように、皆が見つめ、レオは憂い、エクレはシンクを気にし、シンクは疲れ果てながら「いい歌だなあ」と充実感を得る。
今回においても、今度はレオが聞き、エクレがデレデレ、そして土地神のシーンのように。
もう一度言うが、まだあるであろうミルヒの歌のシーンは、本作の着地点となるだろう。
また、コンサートでミルヒが花を掴んで高く投げたのも注目したい。
同様に、7話のフリスビーのシーンで、ミルヒはキャッチしたフリスビーをとても高く投げた。
そして今回、土地神が空へと駆け抜けて行った。
この土地神は、10話でミルヒがキャッチした存在である。
だとすれば、予習記事で書いたように、落ちてきたシンクをキャッチしたミルヒは、再びシンクを空高く舞い上げねばならない。
それは、まさしくシンクの帰還であり、その展開は必然なのだろう。
ミルヒが手を高くあげる時に花火が打ち上がる描写とも関連付けられるかもしれない。
シンクが飛び降りてキャッチするように、ミルヒはキャッチして高く投げ返す存在なのだ。
ユキカゼによって妖刀が徒花と表現されていたのも、本作を花を使って語るのには重要。
それについては、是非予習記事を。
■作画語り
今回の見所はなんといってもコンサートのシーンである。
語る言葉など無いと思わせるほど素晴らしい。
が、出来る限り具体的に語りたいと思う。
まずわかりやすいところでは、手が上手い、それはもうすごく。
凄まじい立体感、空間把握と、綺麗な指の動き。
一度、手だけに注目して見てほしいくらいだ。
そして、これが最も特筆しべきことだが、タイミングの気持よさ!
ミルヒもそうだが、リズムに合わせて揺れるキャラのタイミングがこれでもかという程に気持ちいい。
ただ揺れるだけでなく、肉体を伴って、キャラ自身がリズムを取ってるのが伝わってくる、極上の作画だ。
特に、ブリオッシュの手拍子は、今まで見た中でも最高の手拍子なのではないかとすら思える。
見ているだけで、こちらの体まで動いしまうような、そんな芝居付けに感服するほかない。
呼吸すらできない!
一番目を惹かれるのは、衣替えをした後に花を掴んで投げるところだ。
見ているだけで仰け反ってしまうほど上手い。
上手すぎてこれに関しては本当に語る言葉がない。
泣きそう。
表情!
エクレがエロい!
もう、セリフがなくても感情が伝わってくる。
シンクが、ごめん、殴られる! と思ったのが手に取るように伝わるし、土地神登場シーンでミルヒが驚きながらも歌をやめないのもしっかりとわかる。
レオも、非常に難しい角度の顔を、これが一番彼女の心情を表せるのだと、納得するしか無いレベルで描かれている。
なにより、舞台を眺める子狐の表情!
どのような気持ちなのか、何を思うのか。
想像力が膨らむ、恐ろしいほど秀逸なカットだ。
子狐といえば、子狐自身も素晴らしい。
見ただけで子狐の骨格がわかるような、骨肉があるのが伝わってくる作画!
それは人に関しても同じで、例えばミルヒの肩甲骨!
骨があり、肉がある。
だから体重移動が生まれ、予備動作があり、意識的ではないゆらぎが生じる。
この作画には肉体があり、ゆえに無意識がある!
無意識が描かれる作画こそが僕にとって最上である。
人間は自分が思った動きだけをしているわけではない。
常に無意識で身体をコントロールし、それが描かれるためにキャラクターに実在感が生じる。
格好悪い表情もまた、素晴らしい!
実在感を高めるなら、格好悪い表情もまた必然。
それによって、キャラクターの感情が『生』のものであるように感じられる。
格好良い表情だけを描くのが正解なのか。
そんなことはないだろう。
そもそも、こんな難しい角度の表情をぽんぽん描かれたら、それだけで実在感うなぎのぼりである。
キャラクターの描き込みではなく、密度ではなく、その芝居の発想とタイミング。
それこそが実在感を生むのである。
それこそが心に響くのである。
この瞬間、まさしく彼らは存在するのだ!
これこそが作画におけるリアリティでありオリジナリティ。
新しいものを見せてくれたことに感謝である。
■なぜここで実在感か
では、なぜこのような方向性で演出されたのか。
吉成鋼だから、というのもひとつの回答だが、そもそも氏に仕事を振ればどのようなものが出来るのかはわかりきっているだろう。
つまり、そこには演出上の意図がある。
では、それは何か。
以前触れたように、この作品は一種のメタ構造を持っている。
それは、作品で描かれることは全てテレビの画面を通したエンターテイメントである、という構造だ。
そして、それが今回取り払われているのだとすれば、どうだろうか。
今回は5話と違い、コンサート中に場面が飛ぶことはほぼ無い。(最後のリコだけであり、そこは通常の作画である。)
5話においてはコンサートは生だけではなく、画面に映されたものを見ている描写が何度もあったが、今回はそれがないのである。
全員が全員、コンサートを生で見ているのだ。
であれば、視聴者の席も画面の前ではなく、コンサート会場にあるのだ。
画面を通さずに見たキャラクターたちに生じる実在感。
そこに生じる、体感的な歌の気持よさ。
そういったものが表現された、近年稀に見るシーンであったと評価できる。
この流れについては、11話でモブが顔つきで表現されていたことにも注意しよう。
フィルターが取り去られ、実在感が増していくのが1話を通して丁寧に準備されているのだ。
それは、いつものようにカメラが主張されず、リコとユキカゼの覗き見ていたように、また、ロランとアメリタが隠れ見ていたように、視聴者が現地に視点を導入されていく段取りでもあった。
■作画崩壊という言葉の定義
さてさて、今回のコンサートの作画。
賛否両論であるが、気になることがある。
正確には以前から思っていたことでもあるが。
それは、作画崩壊という言葉の定義だ。
この言葉は一体何を意味しているのだろうか。
そもそも、見る限りこの言葉の定義につて共通認識は無いように思える。
そんな言葉を気軽に使うこと自体百害あって一利なしだと思うが。
とはいえ、この言葉を使っている以上、おそらく何かを表現しようとしているのだろう。
では、それは何か。
はっきり言って人によって違っているのでわからないのだが、気になるのは客観的に作画崩壊のラインがあるという想定があるのではないかということ。
しかし、そんな想定可能だろうか。
そもそもどのような作画が作画崩壊と表現されるのか?
キャラ表と違う作画か?
しかし、キャラ表が示されていない作品に対しても、この言葉は使われている。
さらに、キャラと違う表情、角度で描かれたものは作画崩壊となってしまう。(今回はそのように使われている節もあるが。リアリティを考えれば、格好悪い表情があるのは必然である)
さらに言えば、キャラクターデザインが描いた絵が作画崩壊と言われることがあるのだ。
では、これまでの話数に出てきた絵との比較か?
だが、1話から作画崩壊と呼ばれる作品がある。
また、初めて出るデフォルメ絵に対して作画崩壊と言うだろうか。
言わないのであれば、情報量を増やした、言わば逆デフォルメと呼ばれるものを作画崩壊というのもおかしいだろう。(この点に関してみなみけのそれを無邪気に作画崩壊と言っていた人もいたと思うが)
絵の巧拙のことか?
であれば、素人判断はできない領域の問題だ。
そもそも今回に対する反応を見れば、巧拙について判断できている人間は作画崩壊などと言わないだろうことは明らかだ。
このように作画崩壊には多様な定義があり、最終的には絵の巧拙か、あるいは好みの問題に還元されるのではないか。
そして、絵の巧拙についてなにか言うにはそれなりの知識が要求される。
アニメ制作の工程に関する知識すらまともにない人間が、果たして使っていい概念なのか。
必要とされるのは単純に絵の知識ではない。
アニメ制作はあらゆる分野が繋がっており、単純に絵だけを取り出すことは困難だからだ。
であれば、好き嫌いの意味で使われることになるが、果たしてそれに作画崩壊という言葉を用いるのは正しいのだろうか。
なぜなら、ここで言われていることは主観の中の何かと実際の画面との不一致のことであり、それを作画崩壊と言うのは実情と字面が違いすぎるだろう。
もっと適切な、主観的な言葉を使うべきではないか。
このように多義的に使われている言葉をあたかも共通認識があるかのように用いて語り合っても、実際には何も語り合えていないのと同じである。
そのような空っぽの、しかし負のイメージの強い言説が蓄積していくことがアニメのためになるとは到底思えないし、使っている人間のためになるとも思えない。
まあ、あくまでアニメはコミュニケーションのための踏み台で、中身がなくても何か言い合うだけを目的とするのなら話は別だが。
だからこそ、アニメを語るときに作画崩壊という無責任な言葉を用いるのはやめてほしいというのが僕の思いである。
世には作画崩壊というレッテルを貼られた作品が多くあるが、どれも作品によって実情が異なっている。
それをひとつの言葉で一括りにするのが正しいとはどうしても思えないのだ。
今回の作画に不平を言うのをやめろと言っているわけではない。
それは好みの領域であり、あるいは明確に問題のある映像であったことを示す根拠があればいいのだから。
ただ、そのことを作画崩壊という言葉で覆い隠し、実際に自分が何を感じたのか言語化せずに、埋もれさせてしまうのは非常に勿体無いと思うのだ。
僕の願いはアニメをめぐる言説の豊穣である。
それを空っぽに還元してしまう言葉には、反感を抱いてしまう。
本編と直接的には関係の無い余談が長々と続いてしまった。
兎にも角にも、残すところはあと2話。
一体どのようにこの物語を締めくくってくれるのか、期待である。
個人的にはエクレに注目せざるを得ない。
ちょう可愛い!
まさしくこれまでのミルヒとレオの物語の収束点である。
そしてまた、人によってアニメの、世界の見え方は違うのだと深く実感した回でもあった。
いや、まあ作画もそうだし展開に関する感想とか読んでてね。
果たして、あなたの見てきたDOG DAYSは、僕の見てきたものと同じなのだろうか。
なぜ僕がこれほどまでこの作品を絶賛するのか。
これから、僕がこの作品に対しどのような立ち位置にあり、どのような眼鏡をかけているのか、示していこうと思う。
具体的には本作を視聴する上での、追っているラインを示す。
それによって、DOG DAYSへの一つの新しい展望を切り開ければ幸いである。
その前に、11話の予習記事を読んでいただければ話がわかりやすいかもしれない。
予習記事は運命が変わった理由とかも書いたのできっとおそらく要チェック!
今回は力入れていきますよ!
■5話のリフレインと、ミルヒの成長
以前述べたとおり、ここ数話は4・5話との対比となっている。
つまり誘拐→勇者超特急→コンサートという流れであり、そうである以上、5話との違いが重要になってくる。
まず、4・5話の主題となっていたものは何であったか。
それは、ミルヒのレオへの思いであろう。
しかし、ミルヒはレオに自分の思いをぶつけることができなかった。
そして、その流れで、シンクに「自分はまだまだ領主としてひよっこだ」と言うのである。
もちろんミルヒの為政者としての成長も、前回を見れば明らかなようにしっかりと描かれている。
だが、根本的なミルヒの心情は、レオの態度に直結している。
レオが自分にあのような態度をとっているのは、何が理由にせよ、自分がひよっこで信頼されていないからだ、と。
そのため、ミルヒがレオに自分の思いをぶつけ、その信頼を勝ち取ることがDOG DAYSの主題の一つであることは5話の時点で明らかであったし、そこを追って視聴していくべきではないか。
だからこそ、ミルヒが戦場に出て、レオの前に立ち、思いをぶつけるシーンが感動的なのである。
5話とは違い、今回ミルヒはレオに伝えることができた。
対等になれたのである。
「レオ様に『守っていただいてばかり』だった小さなミルヒも、今ではそれなりに『大人』になっています」
結果、5話とは違い、レオもミルヒのコンサートを聞くことが出来るという展開に繋がっている。
これこそまさしく、ミルヒとレオのの物語の着地点として相応しいだろう。
ただ。
今回新たにコンサートを聞けないキャラがいた。
リコッタである。
彼女を含め、今度こそ全員が聞けるミルヒの歌。
そこが、この作品全体の着地点となるのだろう。
このように、ミルヒのコンサートは作品を象徴するシーンであり、常にそれまでの流れを読み取りながら見ることで、見え方が変わってくるのである。
■大人と子どもの境界線
さて、5話についてもう少し詳しく見る必要がある。
それは、大人と子どもの境界線である。
そもそもこの境界線がレオによって作中に導入されたのは4・5話である。
彼女に言わせれば、シンク・ガウルは子どもであり、自分は大人だ。
そしてレオ本人がどう思っているかはともかく、ミルヒは自分がひよっこ=子どもであることがレオの態度の原因であるとして悩む。
実際、レオにとってミルヒは庇護すべき対象であって、その意味では大人扱いしていないのだろう。
レオは、ミルヒが星読みの件を知り思い悩むことすら許容できないのだろう。
それが、全てを自分が引き受けるという態度なのだ。
しかし、そもそもレオは大人であると言えるのだろうか?
公式サイトのキャラ紹介で、年齢表記のあるキャラと無いキャラがいて、レオは表記のあるキャラで最年長の16歳である。
この区分が大人と子どもの境界線だとすれば、レオは子どもだということになる。
そのようなことを考え視聴してきたが、今回、一つの回答がロランの口から語られた。
「レオ様も領主として立派にやっておられるとはいえ、まだお若い。」
だから、大人が支え、見守っていこうと。
それは、ミルヒがレオに思いを伝えたときにも言った言葉だ。
「信頼する臣下や、友人もいます」
これこそが、一人で全てを背負い込もうとしてきたレオへの回答である。
「世界はキミだけがいればいい」「キミのいない世界なんて」
しかし、子どもが大人になるのは周りの支えがあってのものである。
そうやって、少しずつ大人になっていく。
そうした存在としてのオンミツ部隊。
ユキカゼがとてつもなく年長者であることも示された。
これは大人と子どもの間の、中途半端な時期に、陥りがちなセカイ系的想像力に対する、一つの回答とも解釈できる。
社会と人間関係を描けば、当然そうなるし、キャラクターの多さもそういった意図があるのならば納得出来るはずだ。
深い人間関係だけを描くのが、常に是であるとは思わない。
しかし、これらは今回の主題ではないので置いておく。
まどマギ辺りと比較すると面白いかもよ?(放言)
とにかく、DOG DAYSは、大人になっていく子どもと、それを支えている周囲というテーマがあり、これも視聴の上での軸となるだろう。
年齢表記のないジェノワーズ?
あれは子どもというよりバカ……。
■シンクの帰還
このように、周りに人がいてくれることの大事さを描いている本作であるが、忘れてはならないことがある。
シンクの帰還である。
シンクは帰ることを望んでおり、また、再び勇者として召喚することをミルヒが約束している。
しかし、それが不可能であるとしたら?
次回のサブタイトルである4つの条件がそのようなもの――再召喚の不可能、あるいはフロニャルドでの記憶の忘却など――であった場合だ。
「居なくなったりいたしませんから」
ミルヒがレオに言った言葉。
しかし、シンクが居なくなるのだとしたら?
これから描かれるのは、どのような形であれ、別れの形だろう。
人と人のふれあいを描いてきた本作がどのような別れを描くのか。
注目である。
■夜空に花が舞うように
11話の予習記事で「花」とは何かについて書いたが、今回。
花は、ミルヒのコンサートに収束した。
ミルヒの衣装も花をモチーフにしている。
5話も含め、本作はミルヒに、そしてミルヒのコンサートに収束していく。
皆が見る、花としてのアイドル・ミルヒ。
そのコンサートは本作の象徴であり、収束点だ。
5話のように、皆が見つめ、レオは憂い、エクレはシンクを気にし、シンクは疲れ果てながら「いい歌だなあ」と充実感を得る。
今回においても、今度はレオが聞き、エクレがデレデレ、そして土地神のシーンのように。
もう一度言うが、まだあるであろうミルヒの歌のシーンは、本作の着地点となるだろう。
また、コンサートでミルヒが花を掴んで高く投げたのも注目したい。
同様に、7話のフリスビーのシーンで、ミルヒはキャッチしたフリスビーをとても高く投げた。
そして今回、土地神が空へと駆け抜けて行った。
この土地神は、10話でミルヒがキャッチした存在である。
だとすれば、予習記事で書いたように、落ちてきたシンクをキャッチしたミルヒは、再びシンクを空高く舞い上げねばならない。
それは、まさしくシンクの帰還であり、その展開は必然なのだろう。
ミルヒが手を高くあげる時に花火が打ち上がる描写とも関連付けられるかもしれない。
シンクが飛び降りてキャッチするように、ミルヒはキャッチして高く投げ返す存在なのだ。
ユキカゼによって妖刀が徒花と表現されていたのも、本作を花を使って語るのには重要。
それについては、是非予習記事を。
■作画語り
今回の見所はなんといってもコンサートのシーンである。
語る言葉など無いと思わせるほど素晴らしい。
が、出来る限り具体的に語りたいと思う。
まずわかりやすいところでは、手が上手い、それはもうすごく。
凄まじい立体感、空間把握と、綺麗な指の動き。
一度、手だけに注目して見てほしいくらいだ。
そして、これが最も特筆しべきことだが、タイミングの気持よさ!
ミルヒもそうだが、リズムに合わせて揺れるキャラのタイミングがこれでもかという程に気持ちいい。
ただ揺れるだけでなく、肉体を伴って、キャラ自身がリズムを取ってるのが伝わってくる、極上の作画だ。
特に、ブリオッシュの手拍子は、今まで見た中でも最高の手拍子なのではないかとすら思える。
見ているだけで、こちらの体まで動いしまうような、そんな芝居付けに感服するほかない。
呼吸すらできない!
一番目を惹かれるのは、衣替えをした後に花を掴んで投げるところだ。
見ているだけで仰け反ってしまうほど上手い。
上手すぎてこれに関しては本当に語る言葉がない。
泣きそう。
表情!
エクレがエロい!
もう、セリフがなくても感情が伝わってくる。
シンクが、ごめん、殴られる! と思ったのが手に取るように伝わるし、土地神登場シーンでミルヒが驚きながらも歌をやめないのもしっかりとわかる。
レオも、非常に難しい角度の顔を、これが一番彼女の心情を表せるのだと、納得するしか無いレベルで描かれている。
なにより、舞台を眺める子狐の表情!
どのような気持ちなのか、何を思うのか。
想像力が膨らむ、恐ろしいほど秀逸なカットだ。
子狐といえば、子狐自身も素晴らしい。
見ただけで子狐の骨格がわかるような、骨肉があるのが伝わってくる作画!
それは人に関しても同じで、例えばミルヒの肩甲骨!
骨があり、肉がある。
だから体重移動が生まれ、予備動作があり、意識的ではないゆらぎが生じる。
この作画には肉体があり、ゆえに無意識がある!
無意識が描かれる作画こそが僕にとって最上である。
人間は自分が思った動きだけをしているわけではない。
常に無意識で身体をコントロールし、それが描かれるためにキャラクターに実在感が生じる。
格好悪い表情もまた、素晴らしい!
実在感を高めるなら、格好悪い表情もまた必然。
それによって、キャラクターの感情が『生』のものであるように感じられる。
格好良い表情だけを描くのが正解なのか。
そんなことはないだろう。
そもそも、こんな難しい角度の表情をぽんぽん描かれたら、それだけで実在感うなぎのぼりである。
キャラクターの描き込みではなく、密度ではなく、その芝居の発想とタイミング。
それこそが実在感を生むのである。
それこそが心に響くのである。
この瞬間、まさしく彼らは存在するのだ!
これこそが作画におけるリアリティでありオリジナリティ。
新しいものを見せてくれたことに感謝である。
■なぜここで実在感か
では、なぜこのような方向性で演出されたのか。
吉成鋼だから、というのもひとつの回答だが、そもそも氏に仕事を振ればどのようなものが出来るのかはわかりきっているだろう。
つまり、そこには演出上の意図がある。
では、それは何か。
以前触れたように、この作品は一種のメタ構造を持っている。
それは、作品で描かれることは全てテレビの画面を通したエンターテイメントである、という構造だ。
そして、それが今回取り払われているのだとすれば、どうだろうか。
今回は5話と違い、コンサート中に場面が飛ぶことはほぼ無い。(最後のリコだけであり、そこは通常の作画である。)
5話においてはコンサートは生だけではなく、画面に映されたものを見ている描写が何度もあったが、今回はそれがないのである。
全員が全員、コンサートを生で見ているのだ。
であれば、視聴者の席も画面の前ではなく、コンサート会場にあるのだ。
画面を通さずに見たキャラクターたちに生じる実在感。
そこに生じる、体感的な歌の気持よさ。
そういったものが表現された、近年稀に見るシーンであったと評価できる。
この流れについては、11話でモブが顔つきで表現されていたことにも注意しよう。
フィルターが取り去られ、実在感が増していくのが1話を通して丁寧に準備されているのだ。
それは、いつものようにカメラが主張されず、リコとユキカゼの覗き見ていたように、また、ロランとアメリタが隠れ見ていたように、視聴者が現地に視点を導入されていく段取りでもあった。
■作画崩壊という言葉の定義
さてさて、今回のコンサートの作画。
賛否両論であるが、気になることがある。
正確には以前から思っていたことでもあるが。
それは、作画崩壊という言葉の定義だ。
この言葉は一体何を意味しているのだろうか。
そもそも、見る限りこの言葉の定義につて共通認識は無いように思える。
そんな言葉を気軽に使うこと自体百害あって一利なしだと思うが。
とはいえ、この言葉を使っている以上、おそらく何かを表現しようとしているのだろう。
では、それは何か。
はっきり言って人によって違っているのでわからないのだが、気になるのは客観的に作画崩壊のラインがあるという想定があるのではないかということ。
しかし、そんな想定可能だろうか。
そもそもどのような作画が作画崩壊と表現されるのか?
キャラ表と違う作画か?
しかし、キャラ表が示されていない作品に対しても、この言葉は使われている。
さらに、キャラと違う表情、角度で描かれたものは作画崩壊となってしまう。(今回はそのように使われている節もあるが。リアリティを考えれば、格好悪い表情があるのは必然である)
さらに言えば、キャラクターデザインが描いた絵が作画崩壊と言われることがあるのだ。
では、これまでの話数に出てきた絵との比較か?
だが、1話から作画崩壊と呼ばれる作品がある。
また、初めて出るデフォルメ絵に対して作画崩壊と言うだろうか。
言わないのであれば、情報量を増やした、言わば逆デフォルメと呼ばれるものを作画崩壊というのもおかしいだろう。(この点に関してみなみけのそれを無邪気に作画崩壊と言っていた人もいたと思うが)
絵の巧拙のことか?
であれば、素人判断はできない領域の問題だ。
そもそも今回に対する反応を見れば、巧拙について判断できている人間は作画崩壊などと言わないだろうことは明らかだ。
このように作画崩壊には多様な定義があり、最終的には絵の巧拙か、あるいは好みの問題に還元されるのではないか。
そして、絵の巧拙についてなにか言うにはそれなりの知識が要求される。
アニメ制作の工程に関する知識すらまともにない人間が、果たして使っていい概念なのか。
必要とされるのは単純に絵の知識ではない。
アニメ制作はあらゆる分野が繋がっており、単純に絵だけを取り出すことは困難だからだ。
であれば、好き嫌いの意味で使われることになるが、果たしてそれに作画崩壊という言葉を用いるのは正しいのだろうか。
なぜなら、ここで言われていることは主観の中の何かと実際の画面との不一致のことであり、それを作画崩壊と言うのは実情と字面が違いすぎるだろう。
もっと適切な、主観的な言葉を使うべきではないか。
このように多義的に使われている言葉をあたかも共通認識があるかのように用いて語り合っても、実際には何も語り合えていないのと同じである。
そのような空っぽの、しかし負のイメージの強い言説が蓄積していくことがアニメのためになるとは到底思えないし、使っている人間のためになるとも思えない。
まあ、あくまでアニメはコミュニケーションのための踏み台で、中身がなくても何か言い合うだけを目的とするのなら話は別だが。
だからこそ、アニメを語るときに作画崩壊という無責任な言葉を用いるのはやめてほしいというのが僕の思いである。
世には作画崩壊というレッテルを貼られた作品が多くあるが、どれも作品によって実情が異なっている。
それをひとつの言葉で一括りにするのが正しいとはどうしても思えないのだ。
今回の作画に不平を言うのをやめろと言っているわけではない。
それは好みの領域であり、あるいは明確に問題のある映像であったことを示す根拠があればいいのだから。
ただ、そのことを作画崩壊という言葉で覆い隠し、実際に自分が何を感じたのか言語化せずに、埋もれさせてしまうのは非常に勿体無いと思うのだ。
僕の願いはアニメをめぐる言説の豊穣である。
それを空っぽに還元してしまう言葉には、反感を抱いてしまう。
本編と直接的には関係の無い余談が長々と続いてしまった。
兎にも角にも、残すところはあと2話。
一体どのようにこの物語を締めくくってくれるのか、期待である。
個人的にはエクレに注目せざるを得ない。
ちょう可愛い!
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