ロウきゅーぶ! 9話感想 籠球部という場について
こういうのは勢いが大事。
一気に更新しましょうしていきましょう。
てなわけで9話の感想。
■ロウきゅーぶ!の描いてきたもの
ええとですね、アニメ本スレを見てみたら原作との差異についてのレスが多かったんですが、まあそれは別にいいんですけど、原作と比べるだけでアニメを見ていると言えるのかな、とも思ったりするわけです。
アニメはアニメとして演出されていて、特に原作が基本的に昴の一人称で、しかもなんでも言葉で語ってしまうきらいがあって、アニメはその辺り、つまり地の文である昴のモノローグは映像で表現している。
そういった原作との差異、原作になかった映像の要素こそがアニメにとって肝となるわけで、そこを見てみようと。
具体的にはバスケというモチーフを用いたメタファーが多用されている。
これは以前の記事で触れたが、例えば友情の輪としてのゴールリング。
そこに落ちる/ゴールするものとしてのボール。
で、問題はこれらを用いて一体これまでこの作品は何を描いてきたのか。
スレではバスケ要素、サブキャラ要素を削ってお色気を入れているというようなレスもありましたが、僕が思うにこの作品が描いてきたものは一貫している。
それは「籠球部」という場。
少女たちの輪としての場の大切さです。
先ほど触れたゴールリングやボールのメタファーも、それを強調するためのものだ。
その視点で今回を見てみよう。
ひなたとかげつがマラソンをすることになるが、マラソンのゴールとバスケのゴールがかけられていると考えていい。
女バスの面々がゴールである以上、彼女たちが一緒にマラソンをせずにひなたたちを待つのは当然である。
ゴールの時に夕日になっているのも、太陽=落ちる球体=バスケットボールのメタファーであり、また太陽というのは「ひなた」「かげつ」という名前からのメタファーでもある。
そしてゴールした後、ひなたは「みんな」であることの大切さを説く。
これが今回の構図である。
■これまでのシリーズ構成
では具体的にこれまでどのように女子バスケット部という「場」が描かれてきたのか。
まず1話と2話を通して、智花にとっての女バスの重要性が語られる。
特に2話における智花の告白はこの作品のハイライトとも言える。
そして昴が彼女たちの場を守るために彼女たちを導き、見事勝ち取ったのが3・4話である。
5話・6話では昴抜きで自立して練習に励む真帆とひなたが描かれ、昴のコーチなしで勝利を収める。
つまり、昴におんぶに抱っこの場ではなく、自分たちでも努力して場を維持していることが示される。
特にひなたの「自分が下手だとみんなが楽しめない~」という台詞は彼女の性質を表すと共に、場のために努力をしていることが明確に現れている。
7話と8話では愛莉の成長を通して、昴の予想以上に頑張れる姿と、昴も含めた女バスという場を守る様が描かれる。
智花の「行こう、みんな! この場所を守るために!」という台詞は象徴的。
そして9話。
単純に言えば場を通じてかげつの予想以上に成長しているひなたが描かれ今まで通りの場がまたも守られたという話になるが、ここに重要な点がある。
実は9話は、8話とほぼ同じ構造になっているのだ。
つまり、かげつが葵であり、相手に過保護になっているという点で昴でもあり、引きぬかれようとしているがひなたは8話では昴であり、成長を見せるのがひなた、そして8話では愛莉なのである。
実は7話と8話は原作3巻を元にしており、9話は5巻を下敷きとしている。
わざわざ4巻を飛ばして(おそらく10話以降の元)、特に5巻の内容を改変して似た話を2話続けた意図は一体なんなのか。
ずばり、昴の別れの予兆ではないか。
注意すべきは、かげつがひなたの成長を見て、「これからは一人でも~」というようなことを口にすることだ。
この時のかげつは8話での昴と同じ相手を甘く見ていたという立場であり、この言葉はそのまま昴のものとなりうる。
つまり、彼女たちの成長を見て、昴が指導者から身を引く未来を感じさせないか。
9話においてもう一つ、昴をコンビネーションで捕まえるシーンがある。
これは明らかに成長の一端であり、ある意味で師匠越えだ。
かげつも昴も自身は庇護者であるという意識が強かったが、自身を超える成長を見せられたら……。
しかし、ひなたはかげつを否定する。
「みんな」であることが大事だというのだ。
ここで思い出して欲しいのは、アニメにおいて「おかえりなさい」は非常に重要なファクターとして機能していることだ。
彼女たちの場は、帰るべき場でもあるのだ。
だから、例え将来昴が離れるようなことがあっても、必ず帰ってくる未来があることを、この作品は最初から描いてきたのである。
と言うと非常に綺麗だけれど、もうひとつの可能性として、4話で1度別れを告げた昴が帰ってきているので、そのリフレインである可能性もある。
その場合、別に昴が別れを告げる必要はない。(もちろんあっても問題ないが)
とはいえ、どっちにしろ帰るべきみなの場として女子バスケット部が一貫して描かれているのは疑いようがないと言っていいだろう。
■どうして「場」という要素なのか
さてさてそれじゃあなんでアニメではこの「場」を重視して描くことにしたのか、バスケ要素などが削られることになったのかという疑問が浮かび上がるが、単純にバスケがアニメに向いてないからだと思う。
そもそも原作自体にバスケを扱う必然性はないと思われる。
むしろ、映像のモチーフとして重宝してる以上、アニメのほうが必然性はあるとも言えよう。(つまり、原作ではバレー作品にしたところで競技に関わるシーンを変えれば成り立つが、アニメでは競技シーン以外でもバスケという要素が映像の軸として存在しているから)
そんな中で原作がバスケ作品として世に出たのは、作者の書きやすさや、売上を狙ってのことだろう。(あまりにマイナーなスポーツだと解説量が増える、等)
そして詳細な試合・練習描写は、独自性という武器になると同時に、エンターテインメント要素でもある。
しかし、それはアニメには適していない。
バスケやサッカーのような流動的なスポーツをアニメにする困難さは考えればすぐに分かる。
ではアニメで描きやすい要素がなにかといえば、声があり、音があり、ビジュアルがある、「そこにいる」ということ。
それこそが場を描くということなのだ。
とまあそんな感じでいろいろ言ってきたわけだけど、要はアニメは一貫した作りをしているし、それはそれとして単体で作品を視聴・評価してみたらどうかな―ということ。
単純なキャラクターの芝居以外のところでも、アニメというものは表現を行っているのだという、そんな当たり前のことを言ってみたくなっただけですね。
その上で批判するともっと説得力が増しますよ。
別に批判に説得力なんて求めないでしょうけど!
それと、今まではさっき触れたように2話単位で話が進行していて、そうすると10話は9話と密接な関係になるはずですけどどうでしょうね。
公式戦ネタは8話から振ってるけど、9話と噛み合うような10話になるのかどうか、どうなんでしょ。
全体を見た構成の行く末もね。
アニメは小説と違って巻ごとに話が分かれてるわけじゃないし、そういう囚われ方はせずにシリーズ通した構成に注目するのも良いかと。
なんてねー。
一気に更新しましょうしていきましょう。
てなわけで9話の感想。
■ロウきゅーぶ!の描いてきたもの
ええとですね、アニメ本スレを見てみたら原作との差異についてのレスが多かったんですが、まあそれは別にいいんですけど、原作と比べるだけでアニメを見ていると言えるのかな、とも思ったりするわけです。
アニメはアニメとして演出されていて、特に原作が基本的に昴の一人称で、しかもなんでも言葉で語ってしまうきらいがあって、アニメはその辺り、つまり地の文である昴のモノローグは映像で表現している。
そういった原作との差異、原作になかった映像の要素こそがアニメにとって肝となるわけで、そこを見てみようと。
具体的にはバスケというモチーフを用いたメタファーが多用されている。
これは以前の記事で触れたが、例えば友情の輪としてのゴールリング。
そこに落ちる/ゴールするものとしてのボール。
で、問題はこれらを用いて一体これまでこの作品は何を描いてきたのか。
スレではバスケ要素、サブキャラ要素を削ってお色気を入れているというようなレスもありましたが、僕が思うにこの作品が描いてきたものは一貫している。
それは「籠球部」という場。
少女たちの輪としての場の大切さです。
先ほど触れたゴールリングやボールのメタファーも、それを強調するためのものだ。
その視点で今回を見てみよう。
ひなたとかげつがマラソンをすることになるが、マラソンのゴールとバスケのゴールがかけられていると考えていい。
女バスの面々がゴールである以上、彼女たちが一緒にマラソンをせずにひなたたちを待つのは当然である。
ゴールの時に夕日になっているのも、太陽=落ちる球体=バスケットボールのメタファーであり、また太陽というのは「ひなた」「かげつ」という名前からのメタファーでもある。
そしてゴールした後、ひなたは「みんな」であることの大切さを説く。
これが今回の構図である。
■これまでのシリーズ構成
では具体的にこれまでどのように女子バスケット部という「場」が描かれてきたのか。
まず1話と2話を通して、智花にとっての女バスの重要性が語られる。
特に2話における智花の告白はこの作品のハイライトとも言える。
そして昴が彼女たちの場を守るために彼女たちを導き、見事勝ち取ったのが3・4話である。
5話・6話では昴抜きで自立して練習に励む真帆とひなたが描かれ、昴のコーチなしで勝利を収める。
つまり、昴におんぶに抱っこの場ではなく、自分たちでも努力して場を維持していることが示される。
特にひなたの「自分が下手だとみんなが楽しめない~」という台詞は彼女の性質を表すと共に、場のために努力をしていることが明確に現れている。
7話と8話では愛莉の成長を通して、昴の予想以上に頑張れる姿と、昴も含めた女バスという場を守る様が描かれる。
智花の「行こう、みんな! この場所を守るために!」という台詞は象徴的。
そして9話。
単純に言えば場を通じてかげつの予想以上に成長しているひなたが描かれ今まで通りの場がまたも守られたという話になるが、ここに重要な点がある。
実は9話は、8話とほぼ同じ構造になっているのだ。
つまり、かげつが葵であり、相手に過保護になっているという点で昴でもあり、引きぬかれようとしているがひなたは8話では昴であり、成長を見せるのがひなた、そして8話では愛莉なのである。
実は7話と8話は原作3巻を元にしており、9話は5巻を下敷きとしている。
わざわざ4巻を飛ばして(おそらく10話以降の元)、特に5巻の内容を改変して似た話を2話続けた意図は一体なんなのか。
ずばり、昴の別れの予兆ではないか。
注意すべきは、かげつがひなたの成長を見て、「これからは一人でも~」というようなことを口にすることだ。
この時のかげつは8話での昴と同じ相手を甘く見ていたという立場であり、この言葉はそのまま昴のものとなりうる。
つまり、彼女たちの成長を見て、昴が指導者から身を引く未来を感じさせないか。
9話においてもう一つ、昴をコンビネーションで捕まえるシーンがある。
これは明らかに成長の一端であり、ある意味で師匠越えだ。
かげつも昴も自身は庇護者であるという意識が強かったが、自身を超える成長を見せられたら……。
しかし、ひなたはかげつを否定する。
「みんな」であることが大事だというのだ。
ここで思い出して欲しいのは、アニメにおいて「おかえりなさい」は非常に重要なファクターとして機能していることだ。
彼女たちの場は、帰るべき場でもあるのだ。
だから、例え将来昴が離れるようなことがあっても、必ず帰ってくる未来があることを、この作品は最初から描いてきたのである。
と言うと非常に綺麗だけれど、もうひとつの可能性として、4話で1度別れを告げた昴が帰ってきているので、そのリフレインである可能性もある。
その場合、別に昴が別れを告げる必要はない。(もちろんあっても問題ないが)
とはいえ、どっちにしろ帰るべきみなの場として女子バスケット部が一貫して描かれているのは疑いようがないと言っていいだろう。
■どうして「場」という要素なのか
さてさてそれじゃあなんでアニメではこの「場」を重視して描くことにしたのか、バスケ要素などが削られることになったのかという疑問が浮かび上がるが、単純にバスケがアニメに向いてないからだと思う。
そもそも原作自体にバスケを扱う必然性はないと思われる。
むしろ、映像のモチーフとして重宝してる以上、アニメのほうが必然性はあるとも言えよう。(つまり、原作ではバレー作品にしたところで競技に関わるシーンを変えれば成り立つが、アニメでは競技シーン以外でもバスケという要素が映像の軸として存在しているから)
そんな中で原作がバスケ作品として世に出たのは、作者の書きやすさや、売上を狙ってのことだろう。(あまりにマイナーなスポーツだと解説量が増える、等)
そして詳細な試合・練習描写は、独自性という武器になると同時に、エンターテインメント要素でもある。
しかし、それはアニメには適していない。
バスケやサッカーのような流動的なスポーツをアニメにする困難さは考えればすぐに分かる。
ではアニメで描きやすい要素がなにかといえば、声があり、音があり、ビジュアルがある、「そこにいる」ということ。
それこそが場を描くということなのだ。
とまあそんな感じでいろいろ言ってきたわけだけど、要はアニメは一貫した作りをしているし、それはそれとして単体で作品を視聴・評価してみたらどうかな―ということ。
単純なキャラクターの芝居以外のところでも、アニメというものは表現を行っているのだという、そんな当たり前のことを言ってみたくなっただけですね。
その上で批判するともっと説得力が増しますよ。
別に批判に説得力なんて求めないでしょうけど!
それと、今まではさっき触れたように2話単位で話が進行していて、そうすると10話は9話と密接な関係になるはずですけどどうでしょうね。
公式戦ネタは8話から振ってるけど、9話と噛み合うような10話になるのかどうか、どうなんでしょ。
全体を見た構成の行く末もね。
アニメは小説と違って巻ごとに話が分かれてるわけじゃないし、そういう囚われ方はせずにシリーズ通した構成に注目するのも良いかと。
なんてねー。
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