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DOG DAYS 13話及び総論としての感想

この日々は続いていく。
出会いと別れと、再会の約束。
そうして少年の世界は広がった。


はい、ポエムで始まった今回の感想。
しかし率直に何か言葉にしようとして出てくるのこれなのだから仕方ない。
いろんな思いを言葉にするのは得意じゃないし、いつものように描写の解釈から入っていこうと思う。

■リフレイン構成

この13話が1話の対比となっていたことは明白だ。
シンクの送還からBパート、1話と同じカットが少しだけ変わって使用される。
描かれるのは、時間の経過と喪失だ。
同じように描かれるこそ、違いが明確になる。
リフレイン構成がこの作品の特徴である。
13話における具体例は後で見るとして、まずは全体がどのような構成になっているか見てみよう。
1話と13話の対比。
前回までの感想で触れてきたように、3・4・5話と9・10・11話の対比。
ミルヒとの風呂のシーンや散歩のシーン、シンクが皆の元を廻るシーンなど、細かいシーンを見ればさらに大量にあるし、「落ちること」「キャッチすること」(詳細は10話の感想)などの動作の文法的な仕様を見れば驚くほど徹底された造りになっているのがわかるだろう。
これら同じことの繰り返しによって、変化が強調されて表現されているし、キャラクターが表現されているのだ。

では、13話ではどのようにそれが行われているのか。
キャラクターごとに行動を追って確認してみる。

■蝶の勇者シンク

前提として、シンクは落ちてキャッチするキャラである。
Bパートのシンクは1話と同じように描かれながら、しかし喪失を感じさせる。
ベッキーの頭を撫でるシンクに、視聴者はフロニャルドでの日々を想起するが、彼にはその記憶がない。
ガードレールの上でのジャンプも、カバンを投げキャッチする動作が欠けている。
これは当然、シンクがフロニャルドでの記憶を取り落としてしまっているからだ。
また、ナナミとの試合でシンクが1話で見得を切ったのと同じ動きをしていることも見逃せない。
この時既にシンクの記憶は戻っているのだから、ここでキャッチする動作を行うのも必然なのだ。

さて、蝶である。
注目して欲しいのは1話と13話、共に出てくるシンクの家の玄関の前のカット。
1話の時は蝶が飛んでいるが、13話の時には飛んでいないのだ。
そして、13話の中には、蝶が出てきたシーンが別にある。
ミルヒとシンクの朝の散歩のシーン、花にとまる蝶が描かれているのだ。
11話の予習記事などを見て欲しいが、ミルヒは、さらにフロニャルドは花であると言える。
対するシンクは蝶なのだ。
13話で家の前に蝶が飛んでいなかったのは、この時点ではシンクが勇者としての資格を失っていたからではないか。
それを裏付けるように、13話では記憶が戻るまで花の近くでシンクが跳び回る描写が排除されている。
そして、記憶を取り戻したシンクは満開の桜の中を楽しそうに跳び回るのだ。
シンクは、勇者とは、花の中を飛ぶ蝶である。

■掴み、空へと投げるミルヒ

これも以前書いたが、ミルヒは掴んで(キャッチし)それを空へと投げるキャラだ。
7話でフリスビーをキャッチした後高々と投げた。
10話で子狐をキャッチし、11話で親狐を天へと返した。
この時花を掴んでそれを空高く投げる動作を行なっている。
そして、シンクが召喚されたとき、彼は花に受け止められた。
これはまさしくミルヒであり、であれば彼女がシンクを送還することになるのだ。
しかし、彼女が一度だけキャッチを失敗したことがある。
12話でのフリスビーのシーンだ。
取り落としてしまったフリスビー。
だが今回ミルヒはフリスビー=パラディオンをシンクからしっかり受け取り、そしてそれをシンクのもとへと投げ返したのだ。
それだけではない。
パラディオンとともに、シンクの落とした記憶をも彼へと投げ返したのだ。
これこそが彼女、ミルヒオーレ・F・ビスコッティである。

■共に行きて送るエクレ

エクレはまさに相棒キャラだ。教え、共に行き、そして後押しする。
エクレとシンクの絡みはほとんどをこれで理解できる。
今回もそうだ。
シンクに召喚台まで付き添い、「帰るな」とは言わず、しかし「割と早めに帰ってこい」と言う。
すごい。
泣き腫らした目とかすごい可愛い。
ずるい。
そっぽ向いて尻尾ふりふりシンクを待ってたらベッキーも来て動揺するエクレください!

■落ちてくるもの

フロニャルドにはものが落ちてくる。
シンクであり、魔物であり、妖刀である。
これらはみな受け止められる存在であるが、そこに理屈は必要とされない。
ただ落ちてくるがゆえに落ちてくるのだ。(シンクも召喚された存在だが、召喚の理屈は一切説明されない)
「降って湧いたように」あらわれるのだ。
そして今回、新たに落ちたものがある。
本に挟まれていた、再召喚に関する手紙である。
この手紙が、いつ誰が誰に宛てたものなのか一切説明されない。
良いものも悪いものも、救いのように、あるいは天災のように降り落ちる。
それがフロニャルドなのだ。
これもまた徹底した演出であり、哲学であるとすら思える。

また、前回落とした三つのもののうちの一つが本であったことを思い出そう。
リコッタは今回しっかりと、拾うことができたのである。

■星と星詠みと携帯

さて、以前から星詠みの解釈について考えると言っていたが、今回その助けになりそうなものが登場した。
シンクの携帯ストラップが星の形をしているのだ。
ここから、星詠みと携帯が対応している、と考えられないだろうか。
レオの星詠みとベッキーの携帯占いが対応していることは以前述べた。
さらに今回、ベッキーが携帯で検索を行ったが、これはユキカゼの星詠みによる「探しもの」に対応しているのではないか。
ならばミルヒの星詠みはワンセグといったところか。

さらにもう一つ。
今回地球に帰ったシンクの描写から、星空へのPANを介してフロニャルドの描写へと繋がった。
この星空が、まるで天の川のように描かれていたのだ。
フロニャルドでも、特に風呂において星は天の川のように描かれる。
12話で、シンクとミルヒのバックを完全に星空だけ描いた大胆なカットは印象的である。
つまり、シンクとミルヒは彦星と織姫のような関係として描かれているのかもしれない。
このことは、原作・脚本の都築氏がインタビューで「ミルヒという相性が先に決まっていて、名前の元ネタをお菓子か星の名前のどちらで統一するかで迷った」ということでも裏付けられているように思える。
「ミルヒ」を使った星の名前といえば、ドイツ語で天の川を意味するミルヒシュトラーセであろう。

これら双方に言えるのは、星が人と人との間に存在する関係性としてあるということだ。
壁となるか、繋がりとなるか。
それはキャラクターの思い次第だと言えよう。
ラストのシンクのパラディオンと、ミルヒのエクセリードが光を放つシーン。
この星のような輝きで、彼らは繋がっているのだ。

■希望の光

今回は光の表現も考えさせられる。
特筆すべきは、朝の散歩で逆光になったミルヒのカット。
シンクの反応も含めて非常に示唆的である。
光の表現と、それにハッとするシンク。
同じような表現が、シンクを送るエクレのシーンでもなされている。
共通するのはお願いをしているシーンだということだ。
10話のサブタイトルは「勇者と姫と希望の光」であったが、ここでは希望=願いとして変奏されて表現されているのではないだろうか。
恐らく、朝の散歩の時点でミルヒは送還の真実について気づいているのであろう。
しかし、ミルヒの本当の願いは逆光になってシンクには届かない。
同様に、エクレのシーンでは光は木漏れ日となって零れ落ちる。
本心全てを伝えはしないが、その願いの一端はシンクに届くのだ。
そして、送還の時。
魔方陣の光は強く二人を包み、二人は思いをぶつけ合う。
帰還したは暗闇のなかで目を覚ます。
ベッキーがカーテンを開けるが、この時彼女は気づく側である。
また、光はシンクに完全には届いていない。

同じように、リコが目を覚ますシーンでも窓から差し込む光が描かれる。
この時の光はまさに希望の光であろう。
再召喚の方法を知ったリコはいくつもの光の差し込む窓の中を走る。
騎士たちの鍔迫り合いで光る火花。
ロランとアメリタが話すカットも窓から光が差し込み。
風月庵の井戸のカットは水が光っているかの様に見える。
そして何より手紙を読むミルヒのカットで、鏡に映ったミルヒが窓からの光で輝いて見え、再召喚が可能だと知った彼女の目は光で潤むのだ。
そして。
シンクのもとに届けられたパラディオンが光を届け、シンクは記憶を取り戻す。
小説版には、「紋章は決意と心の力で発動させるもの」というエクレのセリフもある。
紋章術、ヒカリウム、花火。
本作は思いの光で溢れた作品なのだ。

■涙

今回、様々なキャラが別れのことを思い涙を流した。
この涙こそが、前回落とした三つのものの最後、ジュースの変奏なのではないだろうか。
そのためか前回、シンクは送還に関する事実を知っても泣くことはなかった。
その事実を一人で受け止めようとしたからだ。
しかし、そんなことはできなかった。
ミルヒやエクレは気づいていたし、ロランやユキカゼ、ブリオッシュなどの大人も気づいていたのかもしれない。
シンクやミルヒ、リコは涙を流す。
だが、その涙を、その想いを受け止める相手が存在するのだ。
風月庵の井戸のカット。
溜まった水と、綱と籠。
あれは零れ落ちた涙が掬われる=希望が救われるという解釈ができる。
また、綱が一縷の望みかのようにも見えるだろう。

涙といえば、前回もそうだが、リコの涙はシンクとの別れの辛さもそうだが、エクレ達がシンクと仲良くなっていくのを見つめてきており、さらに自分が何もできなかったという不甲斐なさから来た涙である。
(そのためシンクとリコが仲良くなる経過、また仲良しの描写の不足からこの涙を批判するのは的はずれである。リコがミルヒの悲しむ顔が見たくないと努力するキャラなのは3話で描写されているし、エクレとシンクとを見守っているのは6話や11話で描かれている。)
この自分が不甲斐ないゆえの涙というのは、6話でのシンクとミルヒの会話のリフレインだ。
かつてのシンクも今回はリコも間に合わなかったのだ。
そして、ミルヒにその涙を肯定されたシンクが、今度はリコの努力を肯定する。
このように、様々に形を変えたリフレインによって本作が構成されているというのは、絶対に見落としてはいけないポイントだろう。

■再召喚条件――手紙と星詠み・リコとレオ

リフレイン構成として今回もっとも重要なのは、レオの星詠みと送還の条件を知ったシンクとが対比になっていることだ。
未来の悲劇を知ったシンクとレオがどのように対比されているか。
共通するのは一人で抱え込もうとしたことであり、違っているのは運命に前向きであるかどうかと、他にそのことを知るキャラがいたかどうかである。
このことは11話でミルヒがレオに言った言葉を思い起こさせる。
前向きに、みんなで。
送還条件からの一連の流れはこのことの再確認として捉えることができる。

さて、思い起こして欲しいのだが、送還条件も再召喚条件も、リコは手紙で知ることになった。
手紙と対応関係にあるものが作中に登場する。
携帯のメールである。
携帯が星詠みと対応していることは上で述べた。
ということは、手紙もまた星詠みの一種であるとして理解できる。
このことは送還条件一連がレオの星詠みと対応していることを強く裏付ける。
こうしたことを考えると、この送還条件はシンクとレオの対比だけではなく、リコとレオとの対比でもあるのだ。
シンクの悲劇的な未来を知ったリコは、まず当事者であるシンクにそのことを伝えたのだから。
ミルヒの笑顔のため、幸福な未来のため、その方法を模索し続けたという意味で、実はリコとレオは対比関係にある。
10話でレオが弓で援護したのに対し、11話でリコがハーランに乗り助けに来たのも対応関係にあると言っていいだろう。
リコには送還条件を見つけることができない。
ただその運命を見せつけられるのだ。
星詠みと同じように。
それに対しどのような反応をするかがこのリフレイン構成のポイントなのである。
以前頂いたコメントを参照すれば、星詠みを見ている人間は画面越しにしか見ることができず、よって応援することしかできない。
運命は画面に写っている当事者が切り拓くのだ。
同様に、条件を告げる手紙も、リコにはどうすることもできない。
ただ、レオとは違い、リコはシンクに事実を伝えた。
そのことがシンクの形見分けという行動を生み、結果再召喚が可能になったのだ。

余談となるが、レオの星詠みがどこで打破されたかといえば、以前にも述べたがシンクがエレベーターに乗らなかったことによってだろう。(10話感想参照)
そしてそうさせたミルヒの決意はシンクが5話で告げた言葉によってなのはリフレイン構成から明らかである。
こうした絆が星詠みを打倒したのだと考えるのは、ありきたりだが美しいものだ。

話を戻そう。
では、この手紙は一体誰が送ったものなのだろうか?
また、レオの星詠みはなぜあのようなものが見えたのだろうか?

それは――非常にメタ、あるいは至極当然のことのように聞こえてしまうが――脚本家であると考える。
このことは次で詳しく述べる。

■DOG DAYSメタ論――画面と脚本家

詳細は以前の記事で確認していただきたいが、この作品の視聴者は作中の放送を見ている視聴者としての席が与えられている、という構造を持っている。
つまり、視聴者はメタ的な意味で作品を画面越しに見ているのだ。
そしてその画面は11話のコンサートにおいては取り払われることになる。(詳細は次項)

さて、DOG DAYSをメタ的に見たときに、もう一つ注目せざるを得ない存在がある。
脚本家である。
あるいは、プロデューサー・プロモーターと表現してもいいかもしれない。
作品が画面越しのプロレス的な興行だとするなら、そこにはプロモーター・脚本家の影があると言える。
この脚本家は興行を盛り上げるため様々な介入をするが、特筆すべきはキャラクター(の行動)には一切介入しない点だろう。
脚本家の介入の仕方。
それは、「空から落とす」という仕方だ。
つまり妖刀であり、今回本から落ちた再召喚の方法が書かれた手紙である。
これらには全く説明がなされない。
魔物や星詠みに類するものも(例えば星から)落とされたものとして理解することが出来る。
ただ落ちてくるのだ。
そしてそれをキャラクターが拾うことになる。
ここで重要なのは、あくまで何かを落とすだけであり、キャラクターの行動とは関わりがないこと。
再召喚の条件を落としたが、それによって再召喚を行うか、あるいは再召喚に応じるかはキャラクター次第であり、キャラクターがそうした行動を取るであろうことを疑い得ないという点で、本作はしっかりとキャラクターを描いたと言えるだろう。
シンクが皆に者を配ったことは決してご都合主義でも何でもなく、そう称すのであればそれは後から落とされた手紙に書かれた条件だ。
DOG DAYSはキャラクター主導のプロレス的作品なのであり、脚本家が落とすのはキャラクターのためのものでしか無い。
物語のためにキャラクターを犠牲にするのではなく、キャラクターのためにデウスエクスマキナを落とすのだ。
再召喚の条件に沿った行動をキャラクターが取るのではなく、キャラクターの行動に沿ったデウスエクスマキナを投下する。
その結果が、同じような物を拾ったレオと、シンクやリコとのリアクション・行動の違いなのであり、そうした点において本作は一切ブレないキャラクター主導作品なのである。
本作をご都合主義であると称するのなら、最低限このことは念頭におくべきだろう。

こうしたことに本作は非常に自覚的であり、かつ隠そうとしない。
たとえばまどかマギカにおいてワルプルギスの夜が襲来する理由は作中で説明されないが、これはDOG DAYSの文脈から語れば「脚本家が展開のために導入したもの」である。
こうした姿勢自体が批判の対象となるかもしれない。
しかしそれでもなお、あるいはだからこそ、この作品がキャラクター主導であることがはっきりと示されるのである。
あるいは試練であり、あるいは祝福である。
デウスエクスマキナを隠そうとしない本作を批判するのは容易なように思えるが、メタレベルで神の座を用意している構造は、実は一筋縄では相手にできない。
その上でプロモーターを画面には登場させず、ただ空から落とすだけにとどめているのは、むしろ上品ですらある。
脚本家自身を委託した人物・事象を登場させることの醜悪さ(批判的な意味ではない)と比較してみれば自明だ。

■取り払われた画面

11話のコンサートでは画面が取り払われた、とはどういう意味なのか、もう少し詳しく述べてみたいと思う。
端的に言えば、視聴者がメタ的な意味での画面の前から、コンサート会場に視点を移動させられたのだ。
演出もそのように行われ、特に作画も生でコンサートを見ているかのような気にさせる実在感を感じさせる描き方だった。
実在感とはなにか。
別の言い方をすれば、例えばアニメーターの山下清悟さんはこのコンサートシーンをライブ感がある、生々しいと評していた。
生々しさ。
アニメの作画というものは、見せたい絵、格好いい絵だけを描いて見せることができる。
つまりは理想の動きだ。
しかし、このシーンではそれをしていない。
格好悪い絵が存在するのだ。
理想的な、無駄のない絵で構成すれば、例えば武術の達人、アスリートのような無駄のない奇麗な動きが作られる。
しかし、現実の人間の動きはそんなふうには動かない。
思ったとおりには体は動かないし、無意識に体は動く。
そういった無意識下の動き・絵をコラージュすることで、実在感が生まれるのだ。
無駄のない達人の動きよりも無駄だらけの普通の動きのほうが描くのは難しく、そこに実在感を感じる。
骨と肉を伴った重みのある肉体、重力のある世界を感じさせる作画。
それが実在感を感じさせる作画なのだ。

さて、このように演出が行われているため、このシーンではミルヒに感情移入する余地が無い。
他のキャラクターとは同じコンサートの観客として接点を感じることができるが、それがミルヒに対しては行えないのである。
本作では通常の意味での感情移入はさほど重要視されず、応援が重要であるいうのが持論であるが、ミルヒに感情移入する、また視点をミルヒに設定する、あるいはその視点を感じようとすると、このコンサートでの演出に満足できないというは理解できるし、難しい問題であると思う。

本筋と離れるが、少しこのシーンについて語るので読み飛ばしてもらって構わない。
タイムライン系の作画っぽい絵を入れているが演算系の作画という印象。
すごいのは演算的に構成されてる点で、タイミングも抜群に上手いからライブ感と気持ち良さがハイレベルに両立されてる。
このシーンもSAIで作画しているのだとすれば、頭の中でタイムラインが出来上がっていて、その中から描きたい絵を抜き出してそれを再構成しているのではないか。
あるいは、見せたい絵自体がああいった自然主義とも言える絵であり、それを演算して構成しているのかもしれない。
1コマでの回りこみとFixによる異化効果はyamaさんが言うとおり。
まさにライブ感。
そういた構成、演出も見所だ。
色トレスの使い方もとても綺麗。
例えばミルヒの爪が実践ではなく色トレスで指の影と繋げられて描かれていた。
あれでライブの輝いてる感じがよくでていた。
親狐昇天シーンはカメラを低く置きアオリ、上へと昇っていくのを演出している。
最初のレオたちの俯瞰カットも芝居、小物のディテールともに凝っている。
光る立方体が高所から降りてきてミルヒがあらわれるのは作品を通した演出の一環だ。
上から登場→俯瞰→親狐→低所からアオリ→下を見る親狐→昇天、という流れ。
もちろんこの最中にミルヒが花を空に投げ、光が降り注いだのも演出的に重要である。

■日常として――魔物再考

このまま13話の話に戻る前に、魔物についてももう一度考えてみたい。
以前の記事で「シンクは魔物をアスレチックとして日常に組み込んだ」と述べた。
シンクにとってはそうかも知れない。
だが、ミルヒたちフロニャルドの人間にとっては同じように日常に組み込むことはできないだろう。
ではフロニャルドの人にとって魔物とは何であるのか。

これは、災害である、という答えが適切であるように思う。
妖刀が雷と共に落ちてきた、というのも災害という見方を強めている。

つまり、フロニャルドの人々にとって魔物はたしかに非日常であるが、規模によっては日常から理解できる範疇にあるということだ。
魔物をカメラで写していたのも、不安そうにする人々もその文脈で理解することが出来る。

そして、重要なのは今回の魔物がどの程度の非日常であるかではない。
大事なのは、ミルヒが魔物を日常へと回帰させようとしたことだ。
これは為政者の行為として考えれば理解しやすい。
狐親子という災害の被害者がいて、彼らを切り捨てればそこで災害は収束したが、ミルヒはそうはせずに、狐親子も土地に生きる命として、災害から救うと高らかに宣言したのだ。

このように非日常を日常へと組み替えようとするのは前述のシンクもそうであるし、作品全体を通して行われてきた。
戦はたけし城であり、姫様誘拐はヒーローショーなのである。
そして13話。
フロニャルドでの非日常は、再召喚可能によって日常へと組み変わった。
そういった意味で、送還条件はまずフロニャルドでの日々が非日常であると強調するためのイベントであったと言える。
それが一気に日常へと変化するのはこれまで徹底して描かれてきたことと共通するし、まさしくそれがDOG DAYSの主題の一つなのだと言えよう。

■約束

さて、こちらも本旨である13話へと戻ってきた。
今回のサブタイトルである「約束」。
前回もシンクは約束を交わしたが、今回もいくつもの約束を交わすことになる。
ミルヒと、リコと、エクレと。
そしてその約束こそが、再召喚を可能とする条件となった。
召喚を行うのがミルヒであり、召喚に応じるのがシンクであるという点で、前回までのシンクとミルヒの約束が重要なのは言うまでもない。
しかし、それだけではなくいくつもの約束を持ち出したのは何故なのか。

恐らく、シンクとミルヒの二人の関係に収束してしまうのを絶対に避けたかったからではないか。
本作はミルヒ=フロニャルドという印象を持たれることをこれでもかというくらい拒絶しているのだ。
フロニャルドを、広がりのある世界として描くこと。
本作はセカイ系に対する反発ないしは対比関係といった性質を強く持っているのだ。

■セカイ系に対して

DOG DAYSはセカイ系ではない。
特定個人との関係が世界自体と同じくなるセカイ系には、コミュニティ、国家、世界を描くことにより成り得ない。
そしてDOG DAYSは常にコミュニティを描いてきた。
象徴的なのは11話でのミルヒとレオの会話だ。
周囲に人がいて、自分たちは成長していく。
全てを一人で抱え込み、ミルヒのために国を捨てようとまでしたレオは否定される。
恐らく、バナードとヴィオレに相談していなかったら最悪の結果になっていたであろうことは想像に難くない。
レオはセカイ系な思考に陥りかけていたが、人と人の繋がりがそれを救う。
5話でレオに何も言えなかったミルヒが、シンクが言ったナナミからの受け売りの言葉で立ち直り、9話ではレオに立ち向かうことができた。
そして11話でシンク(ナナミ)の言葉の変奏として、周囲の人と共に大人になっていくとミルヒはレオに告げるのだ。
少しずつ変化しながらのリフレイン構成は、人と人との繋がりの結果でもある。

DOG DAYSは広がりのある世界を描いたために、登場人物が多い。
そのためキャラ一人ひとりの描き込みが足りないという批判を見かけることがあるが、果たしてそうだろうか。
この物語の期間は16日だ。
その中でどれだけの人数と親しくなることが出来るだろうか。
シンクとの関係が深く描かれたのはミルヒとエクレであり、それが十全であるならば、この物語が描くべき絆はある意味十分とすら言えるのではないか。
思い返して欲しいが、自分が友人を作るときに何かドラマチックな大きなイベントがあっただろうか。
話をする機会があって、なんとなく仲良くなっていったのではないだろうか。
ドラマを伴った関係はミルヒとエクレで描かれており、その他の交友関係については非常にリアリティをもって描かれている。
16日で広がったシンクの世界は、モブなどの表現も使われしっかりと描かれている。
親しくなった人は密度を持って描かれ、そうでない人は質素に、しかしたしかに存在しているものとして描かれる。
シンクの出会った世界として、フロニャルドはたしかに描かれた。

■そして世界が広がった

こうしてシンクの世界は広がった。
そして、1話を思い返して欲しい。
シンクが今の世界を「窮屈」だと言っていたことに。
13話を通して、シンクの世界が広がっていった。
13話の最後のEDで、フロニャルドの世界が描かれ。
最後のカットでシンクを待つミルヒと、その背後に広がるフロニャルドが描かれる。
この時感じられる世界の広がりこそが、シンクが得たものなのである。
いろいろな経験、人との繋がり、世界の広がり。
DOG DAYSはそれらを肯定する。
このことは物語を通して一貫して描かれた。

同様に、一話での、為政者としてのミルヒの「国民をしょんぼりさせたくない」という発言からの、災害被害者としての子狐救出。
レオの「犬姫を泣かせてくれる」という本心からではない言葉も、9話で達成されてしまう。
リコの「ミルヒの悲しい顔は見たくない」というのリコの行動原理である。
レオとエクレはいろいろと変化が大きいキャラであるが、こうした一貫性とわかりやすさが、DOG DAYSをプロレス的に受容するのを助けているように思う。

と、話を戻すが、シンクの世界が広がったのは十全に描かれたいたように思う。
そして、いろいろな経験と沢山の人々との繋がり、世界の広がりは、それだけでとても価値のあるものなのだと感じた。
それだけ成長と言えるのだと僕は思う。
アフォーダンスの場が広がること自体が成長であり、そのなかで大人になっていく。
個人の世界の成長はすなわち個人の成長だ。

DOG DAYSというジュブナイル作品が描いてきたもの。

フロニャルドでの非日常を日常へと回収し、その日々は続いていく。
少しの間の別れと、再会の約束。
これまでと変わらない少年と、その日常。
少しだけ変わったのは、少年の世界の広がり。
少女と世界は、少年のことを待っている。
この日々は、続いていく。


■感想的なの

と、ここまで解釈的な話を長々としてきたので、今回は少し感想とかあと自分語り的なのとかそんなのもしてみようかと。
ついに終わりましたねえ。
この作品がブログを始めたきっかけなので感慨もひとしおです。
そもそもブログを始めたのは「DOG DAYSに関する言説が圧倒的に不足している!」という思いだったりするのです。
そんなわけで「DOG DAYSの感想見るならここ見なくちゃ始まらねえ!」ってレベルのものを目指して悪戦苦闘。
理想はいつだって立派なのです。
目標はこのブログがDOG DAYSを語る上でのプロトタイプになること。
そのために書き連ねたのが描写の解釈。
特に「落ちること」とかその辺りですね。
この解釈を用いて今までの、そしてこれからの描写を解釈する人があらわれることを期待したわけです。
こうした方法ならいろいろな人が作品を語りやすいし、描写解釈のために作品を注視するんじゃないか、と。
だから、言及したのは作品を通して行われている描写のことが多かったのです。
もちろん、この作品自体がそういう事を言える造りをしていたというのが最大の理由ですし、僕も1話単位での演出を読み取ることよりも作品全体を見ることのほうが得意だからというのもありますが。
とにかく、大げさに言えば作品の見方示し、変革し、言説を豊穣にするのが目標だった。
そういう意味では1話の時からブログをやってればよかったなあなんて思ったりもします。
「飛び降りること」に関しては、何の因果か先行上映会の時から注目していたので、1話の時からブログで言い続けるのが目標的には良かったのではないか。
とはいえ終わったことですし、途中からでもブログを始めてよかったんじゃないかとも思います。
そしてこれだけ作品応援的な記事を書いてきたのも、DOG DAYSがそういう構造を持っていたからなのでしょう。
僕はサッカーやプロレスが好きで、だから応援することが好き。
DOG DAYSは応援を受け止め、走ってくれる作品だった。
プロレスラー的に魅力的なキャラクターたち。
そのキャラクターたちを包む世界。
DOG DAYSはその世界自体が可愛く描かれていたのもすごいなあと思ったり。
けものだまクッションとか是非発売して欲しい。
とても楽しい世界です。

で、DOG DAYSの感想を拾い読みしてみると、「面白くないけど楽しい」「何が面白いのかわからないけど面白い」「何が面白いのかまるでわからない」といった意見が多くて、これは作品の受容の仕方に戸惑っているのだなあと思ったり。
こういった感想を引き出せるのはある意味すごいなあと思うのだけど、そうした人になにか取っ掛かりを与えられないかなあ、というのもこのブログの目的だったりしたのです。
いい加減お前何様だ、みたいな感じなんですが、まあ若気の至りということで。

で、作品の受容の仕方に関しては、僕は1話を見る前に小説版の0話を読んでいて、これが非常に参考になった。
この小説は一体いつになったら発売するのやらなんですが、とても面白いので機会があったら是非読んでみて欲しいですね。

さてさて、感想を言おうと思ったら想像以上に自分語りになってしまってどうしたものやら。
作中の表現を使えば「大好き!」ですね。
これ、大事なフレーズです。
歌詞にも出てきますし、ベッキー曰く「シンクは好きなことばかりに夢中」
それと、とりあえず、2期を前提にした作りではないと思いますよ。
そりゃ作ろうと思えば作れる形にはなっていると思いますが。
しっかりと13話で完結していると思います。
この作品をキャラクター主導と評しましたが、やはりキャラクターの魅力は大きいですよね。
記事だとエクレ推し的なこと言ってますが、実際にはジェノワーズからメイド、男キャラにいたるまでみんな好きです。
ベッキーは素晴らしい幼馴染。
ダルキアン卿とかシンクがもう来られないのをわかった上で「残らないか」的なことを言ってるんだとしたら、とか色々考えてしまったり。
ユキカゼはそりゃ人気出ますよあれは。
実況さんたちのテンションも素晴らしい。
ガウルとシンクみたいな性格の子らの絡みは大好物です。
まあやっぱりエクレは可愛いのですが。
いわゆるカップリングもこだわりはないので何でもいける口ですね。
その中で、難しいから最終回で語るとい言ってきたレオ閣下ですが、いやあやはり難しい。
キャラだけの問題ではなく13話で出番が少なかったからというのも理由なんですが、結局あまり語れなかった。
大人と子どもの中間で、姉のようで実は妹で、勇ましいけど弱い部分がある。
たとえば二次創作なんかで特定の一面だけでなく、キャラ全体を描こうとしたらかなり大変なキャラになると思います。
そんな閣下ですが、そのうち執筆予定のDOG DAYSとまどかマギカの比較記事では中心となる人物なので、そちらの方で詳しく語ることになるかもしれません。

さて、そんな感じでDOG DAYS、爽やかに熱くて、戦にコンサートにお祭り騒ぎな作品でした。
この作品を視聴し、感想を書いてきたお祭り騒ぎの日々。
そんな非日常も、すぐに楽しい日常であったと思い返される記憶になるでしょう。
しかし、その楽しい記憶は忘れずに。
この日々を通していくつかのありがたい、かけがえのない出会い・交流があって。
作品とは一度お別れですが、この日々は続いていきます。
いつかまた出会えると信じて。
広がった世界の日々を、続けていきましょう。

DOG DAYS are not over.


ありがとうございました。
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テーマ : DOG DAYS
ジャンル : アニメ・コミック

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はまじじゅん

Author:はまじじゅん
まとまったアニメの感想とか書ければいいなあとか。
コメント・TB大歓迎。
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TwitterID:hamaji_jun
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