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戦姫絶唱シンフォギア 6話感想 円環の歯車の果て、とか

別に6話の感想というわけでもないけれど。
響は典型的な還るべき場所を守るために戦う主人公なわけです。
で、そういった主人公に関してはゲーム・Dies iraeの批評性を僕は意識してしまう。
ので、それを念頭にシンフォギアを見てみたいと思う。

■還るべき場所のために前進する矛盾

Dies iraeで提示された批評性の一部に主人公の矛盾というものがある。
具体的には、還るべき場所を守るために戦いに赴く前進、その先に還るべき場所があるということの矛盾。
「還るべき前進。行くべき戻る場所」
「世に最果てなど存在せず、突き進んだ先にあるのはただの始まり」
「前進の果てに起点に辿り着くならば、其は言うまでもなく円環である」
つまり、主人公は戦いの円環を回り続けるのだ。
Dies iraeではここにさらに永劫回帰を用い、死んでもなおこの円環は終わらないということが示される。
では、シンフォギアはどうだろうか。
それはシンフォ『ギア』――つまり歯車なのではないか思う。
どういうことか。
まずは響と翼について具体的に考えてみる。

■戦いの先を渇望する翼、前進し続ける響

6話で翼は奏が見たという、戦いの先にあるものを見たいと言う。
響は、還るべき場所、日向である未来を守るために、しかし彼女から離れ前進し続ける。
もしも二人が噛み合うのなら、つまり戦いの先に還るべき日向を見るのなら、それは戦い続ける円環だ。
それが、彼女達の進む先。
そして、それは本作においても、たとえ死んでも終わらないだろう。
なぜなら、彼女達シンフォギアは歯車だから。
奏が死んでも、そのことが翼を戦場に駆り立て、響を戦士にしたように、彼女達は死んでもなお続く者たちを戦いの円環へと導くのだ。
歯車と歯車が噛み合うように。
だからこそ、1話で提示された、響は死ぬという事実が考えさせられる。
響の死は、果たしてどのような意味を持つのか。

考えられるのは2つの道。
1つは、響もまた歯車として回り、他の歯車を動かし戦わせ、死んでいく。

そしてもう1つは、この円環を終わらせる機械仕掛けの神となることだ。

■歯車で動くデウス・エクス・マキナとしての響

歯車は歯車でも、終幕をもたらす機械仕掛けの神、デウス・エクス・マキナ。
響がそうであるならば、デュランダルを扱い、圧倒的速さで成長していることにも納得が行く。
彼女は戦力として、いや存在として、あまりにご都合主義なのだ。
では、彼女がもたらす幕引き、その劇を演出しているのは何者なのか。

■シンフォギア――交響曲の奏者たる歯車

この終わらない戦いの交響曲における輪舞曲の奏者たる歯車がシンフォギアなのだとすれば、その指揮者は、作曲者は何者なのか。
現状考えられのはフィーネだが、彼女にはこれは大役すぎるように思える。
例えばDies iraeでは、劇の指揮をとっているのは神であり、ある意味作品の脚本家自身であることが明かされた。
メタな見方だが、それだけに誠実でもあった。
登場人物を悲劇にあわせるのは、たしかに脚本家なのだから、その責任を取ったとも言えるのだ。
それに比べると、フィーネの描き方は現状では弱く見える。
登場人物たちを大いなる悲劇に導いているのが弱い存在では、観客は納得できないだろう。
ありがちなのはフィーネという個人ではなく、もっと観念的なものをその役に据えることだが果たしてどうなるだろうか。
(例えば、飽くなき好奇心、強欲、嫉妬、それぞれの正義、人の心の悪など)
これまで登場人物たちはノイズに関わる事件で悲劇にばかりあってきたので、その鬱憤をぶつけられるだけの対象が描けるかどうかも、この作品の評価に関わってくるだろう。
響が人を救える力を手に入れられたことに対する喜びなど、ポジティブな面が殆ど描かれていないのもポイント。
特に響は未来とすれ違っていくし、6話でクリスが先のない橋に立っているのは象徴的。
逆に、1話での子供救助や、奏が自衛隊員(?)から礼を言われたシーンなどはこのことに対するカウンターになり得るとも思うので、そこも注視していきたい。 




という、ほとんど妄想なシンフォギア6話感想でした―。まる。
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テーマ : 戦姫絶唱シンフォギア
ジャンル : アニメ・コミック

戦姫絶唱シンフォギア 5話までの百合的感想

タイトル通りな感じで。
ええ、僕はシンフォギアをまともなアニメ版ストパニみたいな感じで見ているので。

■比翼連理と三角形

シンフォギア1話において語られた比翼。
それはツヴァイウイングであり、奏と翼だ。
二人でなら飛ぶことができる。
しかしそれは、二人でなければ飛べないということだ。
ライブの時、そこにはもう一人、響がいた。
未来が行けなくなったため、一人で行ったライブ。
三人になったため崩れたバランスは、響を守って奏でが死ぬという結末を迎える。
二人ではなく、三人になったため、そこに不和が生まれたかのように。

――そうして翼は飛ぶ術を失った。

時は流れ、響と未来の入学によって、再びバランスは崩れることになる。
響と翼と、そして未来。
この三人が揃うことによって事態は急転する。
その先に待つものが響の死というやはり関係の破滅であることは、作品の冒頭で語られたとおりである。

これが基本の作品構造。
これに百合的関係性を加えると、
奏お姉さま←翼(お姉さま)←響←未来
という関係性になる。
王道だ。
これをストパニに例えるなら、
桜木花織←花園静馬←蒼井渚砂←涼水玉青
ということになる。
奏と花織が故人であるという点からも、相似であることがわかる。
違うのは翼が響に敵対意識を持っているということだが、敬愛するお姉さまの残り香を感じさせる女、しかしお姉さまとは似ても似つかないへちゃむくれに反発する、というのも王道である。
つまり、シンフォギアはわかりやすい百合関係コンテクストが下敷きになっており、そこを追っていけば複雑でも
唐突でもない、王道なわかりやすい作品であることがわかる。

■零れ落ちる涙、見上げる流星、落ち続ける翼

3話、翼は響に降下する攻撃を行う。
それは防がれるが、その余波により水道管が破裂し、水を噴き上げる。
その時翼が水を被っただけなのか、涙を流したのかはわからない。
ただ、技の名前からして、翼と涙の関係が深いことはわかる。
涙は光り、零れ落ちるもの。
そして涙は流れ星へと変奏し、響と未来の約束となり、響が翼を見上げる結果となる。
翼は涙であり、流れ星なのだ。
果たして流れ星は飛んでいるといえるのだろうか。
翼は一人で飛べるというが、落ち続けているだけなのではないか。

翼の過去を知った響は、本心から戦うことを決意する。
奏の代わりではなく響という人間として。
響にもある守りたいもの、約束=流れ星=翼のために。

ああ、しかし、それは翼と未来、どちらの比重が大きいのだろうか!
あるいは変化していくのだろうか!
これが百合的人間関係における、今後の見所の一つだ。

この、翼と流星と見つめるというモチーフはOPでも使われており、作品を通底するものであることがわかる。
星空を見上げる響に翼が生え、空へと飛び立つ。
星空に手を伸ばし、見上げるだけの未来。

手を伸ばすということも、EDなどを見れば重要なモチーフであることが提示される。

この他、すれ違う響と未来など、わかりやすく今後を暗示しているカットも目立つ。
響は翼をもって飛ぶことができるのか。
その先に待つのは流星になって消えることではないのか。
ポジティブな意味に感じられそうな飛ぶことが、これまで例示してきたことによって破滅を感じさせるのである。

さて、戦うことを覚えた響に、翼はどう接するようになり、奏を思いながらも、どのような関係を結ぶのか。
距離ができはじめた響と未来の関係は。
もう一つ、クリスの持つ関係性はどうなっていくのか。
OPのラスト、手を繋ぐ二人の手は誰のものなのか。

この作品における設定上の謎、つまりはノイズや聖遺物、シンフォギア、響の暴走など、様々なものがあるが、そういったものが結局は響たちの人間関係に影響するものとして描かれることを期待する。
1話の時点で、これは結局のところ人間関係とその変化を描く作品だと受け取ったのだから。

テーマ : 戦姫絶唱シンフォギア
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